第6章 丹生都姫と八百比丘尼、裏天野の無陣流剣術

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ちとせさんは、それからさらに傘で水分(みくまり)を実演してみせてくれた。 もちろん、手取り足取りではない。 「お師匠さまがいるのに、私が勝手に教えてはだめだもの。でも、勝手にやってるのを見るのは勝手でしょう?」 そう言ってひとさし指を唇にあてて悪戯っぽく微笑む。 ちとせさんの動きを観察していると、いくつか気が付くことがあった。 振るときは前後に移動していること。 右足を出しながら振り上げ、左足を引き付けながら振り下ろしていること。 ぴゅんっと音が鳴るのは、腕がいちばん伸びる、顔の高さであること。 振り終えたら、必ず左腰に得物を収めること。 わたしは一人稽古に戻ったとき、このことを思い出して繰り返した。 あれ以来ちとせさんとは会えていないけれど、とても重要なことを教わったのだと思う。 もちろん、相変わらず太刀筋はへなへなで何かが急に変わるわけではない。 ただ、振り下ろした時、木刀の切っ先にこれまでとは違う物理的な"力"をほんの少し感じるような気がする。 ひとしきり振った後は、わたしはちとせさんを真似て木刀を左腰に収めてみた。 ああ、真剣であれば"納刀"するという意味なのだなと、すんなり理解できる。 と、いつのまにか来ていた清苑さんが、すっと近付いて木刀を指し示した。 「逆。刃の向き」 そうか、刃が上になるよう納刀するんだ。 時代劇のお侍さんも、反りが上になるよう刀を差していたっけ。 「……次はこれもやりましょか」 そう言って清苑さんが取り出したのは、刀の鞘だった。 わたしから短い木刀を受け取ると、するりとそこに収める。 「納刀の稽古も始めてください。刀を抜くのは誰でもできるさかい、収めるんが肝心や」 鞘の入口付近を左手で包むように握る。 鞘を縦方向に起こして入口を上にむける。 刀の鍔元近くの峰を鞘の入口にあて、滑らせるようにして切っ先を収める。 実演してくれた清苑さんの動作は事もなげだけど、やってみるととんでもない。 すでに手元のあちこちをぶつけ、左手の指が鞘と木刀にはさまれて飛び上がるほど痛い。 「手元を見ずにできるように」 それだけ言って、清苑さんは道場を後にした。 いつものようにそっけないけど、ちゃんとわたしの稽古を観察していて次のステージを用意してくれているんだ。 と、清苑さんが去ったのと反対方向から、玉砂利を踏んで近付いてくる足音があった。 白い胴衣袴、長い黒髪をきりりと結い上げた長身の女性。 ユラさんだ。 夜に演武は拝見するもののとても話しかけられるような雰囲気ではなく、なんだかすごく久しぶりに会ったような不思議な気分だ。 「やっ。納刀の稽古始めたんやね」 気さくに話しかけてくれたユラさんは、短期間のうちに頬がこけていた。 近くで見ると白い道着はぼろぼろになっており、ところどころに乾いた血の跡のような染みがある。 いったい、どんな激しい稽古をしているのだろう。 「納刀の稽古やと、鞘を差すための帯が要るさかい。それと、ジャージやと気分も出えへんかと思って(おもて)」 ユラさんが差し出してくれた包みには、巾の狭い紺色の帯と、きちんと畳まれた白い胴衣袴が。 「私の娘時代のお古でわるいんやけど……」 そう言いながら、ジャージを脱いでTシャツとスパッツになったわたしに、道着を着付けてくれた。 胴衣に袖を通し、2箇所を紐で結わえる。 帯を締めて、結び目を腰の後ろに回す。 そしてその上から、ややこしい手順で袴を履く。 「ごめん、一回じゃわからへんよね。清月師範の奥さんもよう知ってはるから、また聞いて」 「ううん、だいじょうぶそうです。競技かるたで袴履いたことあって…」 「えっ、そうなん。初耳」 まったく他愛もない会話だけど、実はユラさんとちゃんとしゃべったのも何やら久しぶりな気がする。 あれから何となく気まずくて、何をどう話せばいいのかちょっとわからなくなっていたのだ。 ユラさんはわたしに道着を着せてくれると、すぐに道場を後にした。 わずかな時間を縫ってこれだけのために来てくれたのだと思うと、心がほっこりしてくる。 彼女の姿が見えなくなるまで手を振ったわたしは、そっと鞘付き木刀を手にした。 刃の側が上になるよう注意して、ユラさんが締めてくれた帯にそれを差した。
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