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心が身体から離れて、ふわふわと浮いているような感覚。
こどもの頃、夕暮れ時の橋をわたる時や列車で長いトンネルに入る時、そんな際に感じたような何ともいえない不思議な感覚に包まれている。
闇の中、どれくらいの間そうしていたのかわからない。
けれど徐々に意識が身体に引き戻されていくのを感じるにつれ、うっすらと視界が戻ってきた。
霞んだ目を懸命にこらすと、薄闇のなか無数の生き物が激しく動き回っているのが見てとれた。
あれは、猿だ。
おびただしい数の猿が、あるいは牙をむきあるいは躍りかかり、何かと戦っているかのようだ。
はじめぼやけていたそれらは、わたしの焦点が合っていくにつれて徐々に姿を現していく。
割けた口から野放図に伸びる牙、爛々と赤く燃える目、黒く爛れた四肢には禍々しい爪が備わっている。
そして頭部には、穢れそのものを凝らせたかのような鋭い角――。
まぎれもない、鬼だ。
日高さんがメモに残そうとした、”オニ”に違いない。
鬼は古墳と御堂の間に見える、裂け目のような場所から一体また一体と侵入してきている。
猿たちは懸命に鬼の侵入を阻んでいるが、それでも振り払われ、打ち倒され、少しずつその数を減らしていっているようだ。
わたしが目を覚ましたのは、公園の端のあたりのようだった。
でも、周囲はさっきまで見ていたはずの景色ではなく、真っ黒な膜のようなもので遮断されている。
ふいに悪寒が背筋を駆け上った。
猿たちを振り払った鬼の一体が、わたしを見つけたのだ。
その鬼は赤い目をぎろりとこちらに向けると四つん這いになり、獲物を狙い定めた肉食獣のように殺到してきた。
身体が動かない。声が出ない。
穢れた牙がわたしを引き裂こうと迫ったとき、鮮やかな緋色が眼前に翻った。
「オン デイバヤキシャよ!共に喜びたまへ、スヴァーハ!」
榊の枝が横薙ぎに一閃され、鬼の口が真一文字に断ち割られた。
どちゃっ、と地に落ちたそれは断末魔の痙攣を起こし、腐敗したようにどろりと溶けていく。異臭とともに黒い蒸気のようなものが立ち上り、角のついた骨だけが残った。
「ユラ、さん……」
「しゃべらないで。あの御堂まで走るわよ」
助けてくれたのは、巫女を思わせる緋袴の装束に身を包んだ由良さんだった。
懐から檜扇を取り出し、小さく何かを唱えながらわたしの両肩、次いで眉間にそれを押し当てると、ふっと身体が軽くなった。
「この子たちは、鬼門除けの青面金剛神のお使い。あの庚申堂の結界はまだ生きている。道は猿たちが守ってくれるから、1・2・3の合図で全力で走って」
由良さんはわたしを抱き起し、右手にもう一度榊の枝を構えて大きく息を吸った。
「行くわよ。…1…2…3!」
彼女に手を引かれたわたしは、脱兎のごとく駆けだした。
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