第10章 臨海学校と真白良媛の悲恋。蘇る西牟婁の牛鬼たち

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上戸川(こどがわ)上流にかかる広瀬谷。 登り口から十を越す滝を経て、その奥に琴の滝はある。 ここは天正13(1585)年の秀吉紀州攻めで敗退した西牟婁の在地武将、山本氏の一門が住んだ隠れ谷とも伝わっている。 道の途中には「抜け穴」や「合戦河原」などの文字が見え、そうした故事を感じさせてくれる。 登り口から、もうすでに水の匂いがしていた。 さわさわと流れる川音が心地よく、ひんやりと肌にまとわりつく山の湿度は、ここが異界との狭間であることを示すかのようだ。 その証拠にバックパックの中でまるくなっていたコロちゃんとマロくんが、最初からわたしの肩の上に乗っている。 ユラさんに続いて苔むした細道を登っていくと、ほどなく目指す琴の滝が見えてきた。 落差20mほどの白い瀑布、その下に穿たれた青く美しい淵。手前の平坦な岩場には石造りの祠が祀られており、なんとも雰囲気のある場所だ。 この淵に棲むという牛鬼は、かつては人の命を奪うおそろしいあやかしとして知られていた。 影を舐められた者が数日のうちに熱病で死ぬなど、災厄をもたらす存在としての伝承が残っている。 けれど牛鬼はとても酒好きな妖怪でもあることが判明し、村人たちが酒を供えることで以降は人を襲うことがなくなったという。 以来、正月にはここに酒を供え、牛鬼と人は共生してきたのだとも。 その言い伝えに則って、この場の再地鎮の祭式は歴代由良のうち"大膳大夫"が執行した。 紀ノ川の大鯰を裏隅田一族とともに供養した、朝廷での饗応を司ったあの人だ。 久しぶりに人の姿をとったコロちゃんマロくんと揃って狩衣姿となったユラさんは、大膳大夫の魂を下ろして一献の酒をととのえた。 すでに出来上がっていたものを作法に則って供したものなので、どうやって造られたものかわたしにはわからない。 けれども祝詞のなかに「ヤシオリ」という言葉が出てきたことから、もしかすると神話に登場する八岐大蛇を眠らせた"八塩折(やしおり)の酒"に類するものかもしれない。 大膳大夫に導かれるまま、わたしは土器(かわらけ)に注がれた一坏(ひとつき)の酒をそっと淵に浮かべた。 清冽な水の匂いのうちに、キャラメルを思わせる甘いアルコールの香りが立ち上る。 不思議にも盃は流れに逆らってふわふわと淵の中央へ向かって漂い、中程でとぷりと水中へと引き込まれた。 大膳大夫の魂を宿したユラさん、そしてコロちゃんマロくんが拝礼し、琴の滝はそれまでと変わらぬ水音で流れ続けている。 おそろしい妖異が姿を現すものと身構えていたわたしは、あまりの呆気なさに緊張の糸が根元から切れてしまった。 が、事件は下山してすぐ、生徒たちと合流する直前に起きたのだった。
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