決めた!

1/1
前へ
/9ページ
次へ

決めた!

 広い空間の中に、ぽつんとひとりで立っている。  周囲は、真っ白。  壁があるのか、床があるのかすら、わからないくらいに真っ白な空間。  足を動かしても、前に進んでいるのか、立ち止まっているのか、わからない。  両手を自分の前に翳しても、自分の手が……見えない!  こんな場所、私、知らない。  誰か……誰か…! (拓人さん!フェイドラさん!) 声にならない声って、こういうことをいうのかな。声が出てこない!  ここは、どこ?  なぜ、私はここにいるの?  誰かに助けを求めても、応えてくれる声はまったく聞こえない。  前に進んでいるのか、いないのか…それでも、私は必死に「前に進もうとする」。 《ハヅキ……》  誰かが、私の名前を呼んだみたい。  必死に周りを見ても、真っ白で、やっぱり何も見えてこない。 《ハヅキ…大丈夫、心配しないで》  誰?私の名前を呼ぶのは、誰?  真っ白な周り、でも、私の名前を呼んでくれる人がいる。  ふんわりと包み込むような、優しい声。 《大丈夫……あなたは、今のままでいい……》  今のままで…… 《ハヅキ、大丈夫だ。タクトやフェイドラと一緒に…》  ふたつめの声。  拓人さん、フェイドラさんのことを知っているの? 《私たちは……いつでも…を………》  私たち?  一体、誰が…  声は返ってこない。  でも、どこかから、優しい音色が…ピアノの音色が聞こえてくる。  穏やかで、優しくて、さきほどの声と同じように、包み込むような音色。  だけど、その音色も少しずつ、遠くなっていく…… 「……っ!?」 まるで何かに弾かれたように、上半身を起こす。 「あ…」 しばらく、ボケたアタマを抱えていたが、そろそろと顔を上げて、あたりを見回してみる。ああ、自分の部屋だ。  えーっと、お店の手伝いをしていて、あやのさんと話しながらまかないを食べてたら、なんだかふらついて……そこから、記憶がない。 「倒れちゃったのか」 額に片手を押し当てたまま、唸ってしまった。あやのさんにも心配かけちゃったことになる。今度、会ったら謝らなきゃ。お店で倒れたのは覚えているけれど、その後の記憶はまったく、ない。倒れた私を、ここまで運んできてくれたのは、フェイドラさんだろう。  髪をまとめなおして、そろそろっと階段を下りる。  リビングルームには誰もいない。ふと、部屋の片隅にある大きめのデジタル時計をみると、午前10時過ぎを示していた。 「ん?」 テーブルの上、毎度おなじみ、拓人さんの書き置き。夕方には戻れるから、と。  と、階下から誰かが上がってくる。ひょこっと顔を出してくれたのは、すっかりなじんだ赤い髪に青い瞳の人。あ、私服だ。 「あ、お嬢。気がつかれましたか」 「フェイドラさん」 階段を上がりきってから、フェイドラさんは私のそばにやってきた。 「よく眠られていたようで、なによりです。お加減は大丈夫ですか?」 「うん…ありがとうございます」 ニコッと笑ってくれるフェイドラさんに、私は安堵したのは確かだ。と、フェイドラさんは、冷蔵庫の中から冷凍していた果物と豆乳などを取り出しながら、 「おいしいミックスジュース、作りましょう」 と言った。  バナナ、桃、メープルシロップと豆乳と、少しの氷。  これをミキサーに何度かかけて……出来上がり。  牛乳と違って、ほわんとした、優しい味わい。私は豆乳ベースが好き。 「はい、どうぞ.。眠気覚ましにもいいかと思います。ゆっくり飲んでくださいね」 少し大きめのグラスにたっぷりと注いでくれる。  ゆっくり飲んでいくと、身体の中に優しい味わいがひろがっていく。冷たすぎない程度に冷たいから、これもすごく心地いいんだよ。ぐったりしていた身体が、少しずつ元気を取り戻すみたいに感じられる。 「おいしい…」 ぽつんと私が呟いたのを聞いてくれていたのだろう、フェイドラさんは笑顔のままで、キッチン仕事をしている。とても手際がいい。料理そのものが好きなんだな、きっと。  言葉はなくても、フェイドラさんの笑顔がうれしい。彼が、この場にいてくれるだけで、とても安心できた。 「ね、フェイドラさん」 「なんでしょう?」 「……夢の中でね、私の名前を呼んでくれる人たちがいたの」 脈絡のない話しになっちゃっているかもしれない。でも、私はそのまま、ぽつぽつと話しをする。  真っ白な空間、優しい声、そして、ピアノの音色。  料理をしながら話しを聞いてくれるフェイドラさんは、ふと顔を上げて、 「それは、きっと、お嬢を見守ってくださっている方々ですよ」 と、言った。 「いつか、マスターが言っていたこと、覚えていらっしゃいますか?あなたに御縁がある人がいること」 「あ、うん」 「自分が本来、暮らしていた世界でも、そういった不思議なお話しがたくさん、ありました。この世界……日本にも、似たようなお話し、ありますよね」 「確かに」 不思議の国、ニッポン。  そうだ……フェイドラさんは、もともとは、異世界…御伽の国からやってきた。彼自身が、不思議の塊。私が知らない世界とか出来事とか、たくさん、見てきているだろうな。その中でも、彼が拓人さんと一緒にやってきた「日本」という国は、果たして、どう見えているのだろう……?  でも、フェイドラさんの言葉から、私が見ていた「夢」は、悪いものではない、ということがわかる。あとで拓人さんにも話してみよう。  ミックスジュースを飲み終えてから、からっぽになったグラスを片付ける横で、フェイドラさんがなにやら仕込み作業をしている。なんだろ?何をつくっているんだろう?手元を覗き込んでみると、なにかの生地みたいだ。 「クッキー?」 「ええ。クッキーです。お店のキッチンで作ってもいいんですけれどね。ふだんのおやつ用に作り置きしておこうかと思いまして。お嬢、一緒に作りますか?」 「あ、うん!ぜひ」 その後、私はフェイドラさんと一緒にクッキー作りに夢中になってしまった。  プレーンな味から始まって、チョコ、砕いたアーモンド入り、紅茶、抹茶、コーヒー、イチゴ、ちょっぴりシナモン入りなどなど……けっこうな量になっちゃった。 「たくさん作りましたねえ」 と、焼きあがったクッキーの粗熱を覚ましつつ、フェイドラさんも笑った。 「お店のメニューでもいいんじゃない?どっかの鉄道会社だと、ホットコーヒーやアイスコーヒーを車内販売で購入すると、ビスケットがおまけについてくるっていうのがあったと思いますけど」 「ああ、自分もそれは一度、マスターと出かけた箱根町へのおでかけで、ロマンスカーという特急に乗った時に、サービスでありました。なるほど、いいですね。そうしましょうか。期間限定みたいな感じでも面白いですし」 そう言いながら、袋や缶に小分けして、湿気を取るための小さな袋も入れておく。その時に、ふと、手が止まった。 「これ……あやのさんにもあげたいな。迷惑かけちゃったから」 いきなり倒れちゃったから、びっくりさせちゃっただろうし、心配をかけてしまったことには変わりはない。 「では、アヤノさんの分は別にとっておきましょう。彼女のことですから、また近いうちにお店に来てくれると思いますし」 「うん」 フェイドラさんが差し出してくれたのは、小さな丸い缶だ。受け取って、その中にクッキングペーパーを敷いて、冷ましたクッキーを詰め詰め……楽しい。あやのさんが喜んでくれることを願いながら、私は作ったクッキーを詰めて、きちんと蓋を閉じた。  私を見守ってくれている人…か。  拓人さんやフェイドラさんだけではない、ということにもなるよね。  きっと、それは…… 「ヒロさんのピアノは、私たちのような類の人間には、とても響いてくるものでもあるのよね」 夕方、お仕事から戻った拓人さんに話しをすると、意外な答えが返ってきた。 「私たちのような……っていうことは、言霊師とか?」 「そう。言霊師だけじゃなくて、言葉や音に敏感な人の中にも、彼の演奏に影響を受ける人がいるの。たとえば、タニさんみたいな人ね」 谷山さんも、拓人さんと同じく、うたい手として「音」に携わるひとりだ。ああ、なんとなく納得できる。  私も、言霊師としてのチカラを持っているからだろう……拓人さんが言うには、やはり、私にも少なからず、影響があるんだろうとのこと。確かに、ヒロさんの演奏は、とっても「あたたかい」気持ちになった。自分の中に響いてくる、優しい音色に、私は心を揺さぶられるような感じもあった。 「ヒロさんは、「音」で会話するピアニスト。彼がいるグループのみなさんも、似たような……ミュージシャンならではの「」みたいなものを持っているのよ。それは、決して「特異なもの」ではなくて……感受性や芸術性の問題なのかもね」 そっか。なんか、わかる気がする。  世の中には、いろんな人がいるから……固執して考えるのは、ちょっと違うのかも。  あの夢の中で優しく響いてきたピアノは、ヒロさんの演奏が素敵だった、印象深かった私には、強く心の中に響いてきたんだろうな。うん、そうだよ。  言葉もなく、私が視線をテーブルの片隅にあった小さな花瓶に向けていると、拓人さんは、 「あと……あなたが、夢で聞いた声は、あなたのことを大事に思っている人。だから、心配はいらない」 と、言った。  ハッと顔を上げる。そうだ、あの声の主は。 「あの、拓人さん、もしかして…あの声って……」 ずっと考えていたことがある。でも、口に出すのがとても怖い。話しをしてもいいのかどうかと悩む私に、拓人さんはニコニコ、いつもの笑顔で私を優しく見てくれている。と、スッと……私の心の片隅にあった「ひっかかり」が……本当に、すうっととれていく感じがした。胸のつかえが取れていく。肩の力が抜けていく。 「ね?」 少しだけ、首をかたむけて、ニコッと笑ってくれる拓人さん。さらっと揺れる、白銀の髪。ワインレッドの瞳が私を優しく見てくれる。 「はい」  いつか、あの声の主に会える日は来るかな。来て欲しいな。  それまで、私は拓人さんのもとで、言霊師としてのお仕事をひとつずつ、少しずつ、覚えていくこと。これは大事なことのはずだ。  でも、私はそれほど器用なタイプではない。拓人さんのように、ふたつの仕事をこなして、さらに言霊師としての修業をするほど器用にはできない。  ずっと考えていたこと。  今、ここできちんと、言葉にしてみよう。 「拓人さん」 「はい?」 「私、今の会社……辞めようと思います」 「え……?」                  (つづく)
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加