世にも奇妙な結婚をした俺の話

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 俺が初めて彼女と出会ったのは、一週間にもおよぶ長い出張を終えて、自宅マンションに戻って来たときだった。  季節は初秋。肌寒さを感じながらエレベーターで三階に上る。重い足取りで三階廊下を進んで行くと、俺の自宅である310号室の前にその女はいた。  真っ赤なブラウスを着て黒いタイトスカートを履いた見知らぬ若い女性が、膝を抱えて座っていたのだ。顔を俯かせて、なんの荷物も持たず。俺の部屋の真ん前に。  ──誰なんだ、こいつは?  自宅の前に居座る姿に困惑しながらも、綺麗な女だと思った。背中まで伸ばされた髪は艶々しい黒。目鼻立ちはやや淡白だが、顎は細く輪郭線も整っている。二十歳くらい? だろうか。  彼女が恋人であったなら、なんてありもしない妄想を抱きそうになるが、残念ながら俺に恋人などいない。今は、という意味ではない、二十五年間ずっといないのだ。そんな愚痴はともかくとして、扉の前から退いてもらわないことには、家の中に入ることすらままならない。  やむなく「君は誰だ? 名前は?」と愛想笑いで問いかけたのだが、「私ですか?」と頓珍漢な答えを返された。他に誰がいるんだよ。  名前はわかりません。自分が何処から来たのかも。なんとなく見たことがありそうな景色を辿っていたら、この部屋に行き着きました。でも、鍵がかかっていて入れなかった、と捲くし立てるように彼女は言った。そりゃ、鍵くらいかける。というか、開いていたら入る気だったのか?  口からもれそうになった不満をぐっとこらえて考える。どうやら彼女は、記憶喪失であるらしい。またなんとも面倒な。 「何時からここに居たの?」 「昨日の夕方かな」  だいたい一日ほどここに居たというのか。  よく空腹で倒れなかったな。よくマンションの住人に通報されなかったな、と二つの意味で感心してしまう。  もっとも、記憶も泊まるあてもない女性をひとりで放り出すほど俺も鬼じゃない。 「とりあえず入るか?」と確認すると、彼女はこくこくと首を縦に揺らした。いいのか? 無防備すぎないか?  まあ、下心なんてないが。  大事なことなのでもう一度。ないんだからな!!?  こうして、俺と彼女の奇妙な共同生活が始まった。  ひとつ屋根の下、見知らぬ女性となし崩し的に始まった二人暮らし。彼女自身、そのことをなんとも思っていないようだが、(男として意識されていないのか? という不満はある)こいつは想像したより精神衛生上よろしくない。  一番最初にやったことは、彼女に着替えを与え、身元不明人として届け出ることだった。  しかし彼女は身分証明になるものを何ひとつ持っておらず、本名も、住所も、ようとして知れないのである。  残念ながら──いや、この表現でよいかは疑問だが──身元不明人として届出をされている者の中にも、彼女と結びつきそうな情報は無かった。  名前はとりあえず、夢芽(むめ)とした。  なにか呼び名がないと困るし。彼女もそれでいいと言うし。  これは『無名』から文字ったものだが、我ながらセンスがないと思う。  当初はマンションから出ないようにときつく言いつけ軟禁状態にしていたが、流石に何時までもそうしてはいられない。記憶喪失だろうとなんだろうと相手は人間なのだ。そこで彼女が困らない程度の衣服を買い与え、合鍵まで持たせて好きにさせてみた。  相変わらず不満ひとつ言わず居座る彼女。いくら相手が若い女だからとはいえ、俺も大概にお人よしなんじゃないか。ある日突然、金目の物を持ってトンズラでもされたらどうしようかと心配はあったが、幸いそうはならなかった。  それどころか、生活に慣れてくると夢芽は積極的に家事をした。  掃除、洗濯のみならず、夕飯の買出しも自分で行い、俺が疲れて仕事から帰宅すると、夕飯の準備が済んでいてついでに風呂も沸いていた。  いいところ、あるじゃないか。 「お疲れ様。おかえりなさい。とりあえずお風呂にする? ご飯にする? それとも、あ・た・し?」 「冗談はよしてくれ」  本当に冗談ではない。  見ず知らずの女に手を出さぬよう、彼女をベッドで寝かせ、俺は床で雑魚寝する日々が続いた。  据え膳食わぬは男の恥?  だったら恥さらしでいっそ構わんね。  けど、背中が痛い。 「背中が痛いなら、マッサージでもしましょうか?」 「いいのかい?」  とかく、彼女は本当に気が利く。  俺が探し物をしているとそれとなく置き場所を教えてくれるし 。(というか、彼女がしっかり整理整頓していた)俺が好む料理の味付けもよく心得ていた。(これは彼女が自炊を始めた当初からだ。エスパーなのか彼女は?)  ダメだ。  こんなのはダメだ、と自覚しながらも、俺は次第に彼女に惹かれていった。  そして彼女の身元がわからぬまま半年が過ぎたころ。  俺はついに過ちを犯した。  いや、ハメられたとでも言うべきか。それとも俺の意思が弱いのか。 「今日だけ、一緒に寝てもいいですか? なんとなく、とても心がざわつくんです」と背中に触れてきた夢芽の身体を、そのまま抱きしめてしまった。  心のタガが一旦外れると、落ちていくのはあっという間だった。  一度でも一線を越えてしまうと、男女の仲は進むのが早い。  俺たちは毎日のように愛を囁きあい、身体を重ねるようになった。 「ああ、もうダメだ」  夜の営みをしているさなか、彼女の体に決定的な特徴があるのに気がついた。  太ももの付け根。いわゆる鼠径部のあたりに三角形の形に並んだ大きなホクロがあったのだ。 「これは、昔からあるもの?」 「たぶん、そうなんじゃないかな」 「そうか。記憶がないからわかんないのか」  そう。一年ほどが経過しても、彼女の記憶は一切戻らなかった。この身体的特徴を追加情報として警察に提出してなお、彼女の身元は判明しなかった。  なぜだ? こんなに情報って入ってこないものなのか? 流石に不自然じゃないのか? まさかとは思うが、未来人とか宇宙人だったりして。そんな妄想をしてかぶりを振った。いくらなんでも非科学的だ。  そうこうしているうちに、俺も、彼女の素性に興味がなくなっていった。今が楽しければ、いいじゃないか。  蝉が死に絶え、木々が赤く色づく秋がきた。あれから三度目となる秋だ。  今日俺は、夢芽と入籍する。  親族なんて無論こちら側しか呼べないのだしと、身内だけでひっそりと結婚式を挙行した。  身元不明人との結婚なんて反対されるかと思いきや、両親はわりとすんなり了承した。どうやら俺が、一生結婚できないんじゃないかと心配していたらしい。余計なお世話だ。  ──それから一年。  俺たちの間に第一子が生まれる。  残業を終えて俺が産婦人科病棟を訪れると、夢芽が笑顔で出迎えてくれた。 「出産に立ち会えなくて、悪かったな」 「仕事じゃ、しょうがないわよ」    そう言って彼女はうふふ、と笑顔を見せる。 「それで? どっちなんだい? 男の子、女の子」  「ああ、女の子ですよ。抱いてみてください」  彼女が寝ているベッドの脇に、俺たちの子どもが寝かしつけられていた。  抱き上げてみると、思いのほか重い。 「おや?」  元気に生まれてくれて良かったと思っていると、赤ん坊の太ももに大きなホクロを見つけた。  まさか? と思いながら裾を捲って確認すると、それは全部で三つあった。三角形の形に並んで。 「なあ、これはどういうことなんだ?」  俺がそう問いかけると、彼女は「うふふ」と曖昧に笑って見せた。 ~END~
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