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少女貴族と僕
「よし……できた!」
できたてのアップルパイの香りがリビングに広がった。
りんごとカスタードクリームの甘い匂いはひだまりに溶けて、うららかな午後へ誘う。窓から差し込む日差しは、降り積もった雪を溶かしていく。
碧ばら荘の大家、ハツエさんは皺くちゃな笑顔を見せた。
「手伝ってくれてありがとう。美星(みほし)さん」
「いえいえこれくらい、お茶の子さいさいですよ!」
丸い形のアップルパイをトレーから紙皿に移しかえる。軽く焦げ目のついたパイ生地はきっとサクサクしているのだろう。幾層にも連なったパイ生地の向こう側には甘いカスタードクリームととろけたリンゴがあるのだ。想像しただけでうっとりしてしまう。
しかしこれはハツエさんが食べるわけでもなく、僕が食べるわけでもない。紙皿ごと紙箱にアップルパイをしまえば、リンゴの甘酸っぱい香りは箱の中に凝縮されてしまうのだった。
「さすがに、思うように体が動かなくて困るわね」
「困ったときはいつでも呼んでください! お世話になってるんですから!」
ハツエさんは御年九十の穏やかな女性だ。腰も顔の輪郭も丸っこく、かわいらしい老人である。心臓に疾患があり、無茶なことはさせられない。庭の手入れ中に倒れてしまったこともある。
倒れてしまったせいなのか、それ以来外出時は杖をつくようになった。せめて車でもあれば連れて行けるのだが、僕のバイト代は雀の涙ほどしかないので車なんてものは買えないのである。
家賃もまけてもらっているから、僕としてはどうにかハツエさんの役に立ちたい。
「これを使えばいいわ」
紙箱に封をしていると、ハツエさんがキッチンにある、童話に出てきそうなかごを持ってきた。編まれたかごの底にはピンクの布が敷かれている。ハツエさんはピンクを好んでよく使う。庭の薔薇にも、ピンクに咲き誇るものがある。まだ二月なので花は咲かないが、五月から六月、それと九月から十月頃にかけて薔薇が咲き乱れる。僕がここに住み始めたのは九月なので、まだその光景を一度しか見たことがなかった。二ヶ月間だけ見たその光景は、紅や桃色の花の煙で霞んで見えた。
「これを隣の人に渡せばいいんですよね?」
「ええ。頼むわね」
僕たちがこうしてアップルパイをつくっているのは、最近、近所の古い洋館に人が越してきたからだった。洋館は近所では幽霊屋敷ともっぱらの噂で、誰も近寄ろうとしなかった。それがどうだろう。一人の若い外国人女性が住み着いたというではないか。最初は洋館に憑いている幽霊だと噂されていたが、どうやら本物の人間のようだ。
その外国人はハツエさんの知り合いらしい。この老人は顔が広い。行き場のなかった僕を拾ってくれたのもこの人だ。
新しい隣人に挨拶するため、ハツエさんがおいしいアップルパイをつくったのだ。
玄関に向かいながら青いコートを羽織る。 薄いブルーのシャツにグレーのスラックスを着こんだ僕は、身綺麗な少年に見えているだろうか。廊下に置いてある全身鏡に姿を映し、変なところがないか確認した。黒いブーツはところどころ傷んでいるが、新しいのを買う余裕もないためそのまま履いている。玄関まで見送ってくれるハツエさんからかごを受け取った。
「すっごい美人なんですよね? どんな人なんだろう……」
「大丈夫よ。とっつきづらいところもあるけど、とても優しい人だから」
ハツエさんが言うなら、間違いなく優しい人なのだろう。誰でも懐に入れてしまうハツエさんだからこそ、その人の優しさを引き出しているのかもしれないが。
新しい出会いに期待で胸を膨らませ、僕は扉を開けた。
「じゃ、いってきます!」
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