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6話「1cm離れた距離で」
「ギリギリセーフ!」
時刻にして8時49分。HR手前で何とか教室に滑り込んだ俺は、荒い息を吐きながら席に着いた。
「どうした陽斗? こんなギリギリとか珍しいな」
「電車ひとつ乗り過ごしてさ」
「そりゃご愁傷さま」
隣の席である彰は、遅刻しかけた訳を聞き意地の悪い笑みを浮かべる。
「夜ふかしでもしたのか?」
「あー……まぁ、そんなもん」
当然、昨日の事を言える訳もなく、俺は言葉を濁しながら答えた。答える俺のぎこちなさを感じたからか、彰は一瞬怪訝そうな表情を浮かべる……が。
「はいはいー席につけー。HRの時間だぞ」
予鈴が鳴り響き、先生が入ってきたので話がそこで途切れる。
始まった先生の言葉を聞き流しながら、目の前の光景にまぶたを細めた。少し、ほんの1cmだけ、ありふれた日常が遠くなったような気がしたから。
『そちらを選択してしまえば、もう貴方は日常に戻れない。その覚悟が、ある?』
彼女は俺に覚悟を問いた。日常を捨てる覚悟を。今は学校に行けているものの、いつかは行けなくなるのだろうか。
そう思うと、目の前の光景がとても尊いもののように、俺は感じた。
放課後、俺は友人たちに別れを告げてひとり電車に乗る。目指すのは自宅……ではなく、蒼炎華が居るアパートの一室。
逢魔ヶ刻と呼ばれる世界に首を突っ込んだ責任として、俺はこれからどうするべきなのか。それを知りに行く。
彼女が拠点としていたアパートの一室、203号室。空白の表札の下にあるインターホンを押した。
『……鍵は開いてるわ、入って』
「わかった」
インターホン越しから聞こえる蒼炎華の声に頷き、俺はドアノブに手をかける。扉を開くと、佇む彼女の姿が見えた。
「いらっしゃい、陽斗」
日本人形のように艶やかな黒髪に、黒曜石の瞳を持つ<月影>が俺を見据える。彼女自身が非日常の証そのもの。彼女を見た瞬間に、俺はもう日常とは離れてしまったのだと、否応なく気付かされる。
「長くなるから、中で話をしましょう」
「あぁ」
蒼炎華に中へと案内され、渡された座布団に腰を下ろす。ちゃぶ台を介して反対側に、彼女は正座で座り込んだ。座っているだけなのに、その姿は気品があって、目を奪われそうになる。
「まずは改めて自己紹介をしましょう。ゆっくりと話す時間もなかったものね」
コクリと頷く俺を見て、蒼炎華は自らの胸に手を当てた。
「私の真名は蒼炎華、蒼炎を操る<月影>よ。表向きには蒼華と名乗っているわ。貴方もこれからは私をそう呼んで頂戴」
「わかった、蒼華」
蒼炎華……いや、蒼華は俺の言葉に柔らかく笑む。想像を絶する美しさに、思わず言葉を見失いかけて、慌てて言葉を紡いだ。
「え、と、俺は坂三陽斗。稲花高校の1年生だ。その、改めて、よろしく」
「えぇ、こちらこそ。陽斗」
互いの自己紹介を終えて、蒼華の柔らかな雰囲気が鳴りを潜める。
「……これから話すのは、貴方たちが生きる世界の裏側。極々限られた人のみが知りうる、真実よ。朝に言ったけど、他言無用は絶対。赤の他人に話せば、貴方も、話した相手も、マトモな人生すら送れなくなるわ」
「ッ!」
無意識のうちに肩へ力が入る。日常を捨てる覚悟を持てずにいたのに対して、改めて釘を打たれた気分だ。
「逆に言えば、誰にも言わなければ貴方は最低限の日常は守られるはずよ。学校にも普通に行けるでしょう」
「……分かった。誰にも話さないと、確約する」
「お願いするわ」
確約、という強い言葉を使った俺に蒼華は安心したように頷く。
俺としても、誰かに話すことはデメリットしか無い。せっかく、仮初でも日常を送らせてくれると言ってくれたのだ。
コホンと蒼華はひとつ咳払いをして、俺をしっかりと見据える。どうやらココからが本命の説明らしい。
「ことの始まりは1000年以上の昔。日本に突如として<悪鬼>が現れたわ」
「せん……!? っていうと、平安時代ぐらいにってこと?」
俺の問いに頷く蒼華は、そのまま言葉を続ける。
「現れた原因は未だに不明。けれど光力を持つ生命……つまり人間だけを喰らうのは確かよ。当時の人々は為す術なく虐殺されたらしいわ」
「虐殺なんてされたら、普通は何かしらの文書とかに残ってるはずじゃ?」
蒼華の口ぶりだと、昔<悪鬼>に殺された人はかなりの数だったのだろう。そうなると何かしらの文書に存在が書かれ、後世の人に伝わって、今ごろは一般人すら<悪鬼>の存在を知っていなければおかしいのだ。
だが、実際は誰も<悪鬼>の存在を知らない。どういう理屈なのだろう。
「えぇ、だから残っているわよ。”妖怪の一種”としてね」
「……?」
妖怪というと、猫またとか、犬神とか、座敷わらしを総称するアレだろうか。でもなぜ今、妖怪という単語が出るんだ?
「<悪鬼>は物体を持たない精神体。だから、当時の人間は対処できなかったわ。自分たちでは倒せず、襲いかかってくる謎の敵……当然、人間が恐怖する対象として広まりつつあったの」
実在する恐怖の対象として、世間に広まりつつあった<悪鬼>。だが、残っているのは妖怪としてだ。それが意味するのは。
「誰かが、<悪鬼>を妖怪として広めた……?」
「あら、正解よ。普通の人では対処できない<悪鬼>を調伏し、妖怪の一種……<鬼火>として広めた人物がいたわ。彼の名は――」
平安時代。妖怪。精神体である<悪鬼>の調伏。
これらが繋げれば、出てくる人物の名はただひとり。
「――安倍晴明」
「なるほど。人に害なす妖怪と、それを退治する陰陽師。その根源は<悪鬼>と<月光師>だったのか。……でも、なんでわざわざ妖怪の一種として広めたんだ?」
普通の人では対処できないのなら、たしかに伏せておくのもひとつの手だろう。とはいえ、隠す理由がそれだけとは思えない。
「普通は大勢に知ってもらうのが一番じゃないか? 皆が知っていれば情報伝達も楽だろうし、対処もしやすいと思うんだけど」
「”普通”はね。<悪鬼>に関しては、誰も知らないほうが都合が良かったの」
頭を傾げる俺を見て、蒼華はふっと頬を緩めた。
「<悪鬼>は人間の持つ光力を糧とするけれど、好みがあるわ。……”負の感情”よ」
「負の感情って、怒りとか、悲しみとか、恐怖とか?」
「えぇ。アレは人間全てを襲うけれど、負の感情が強い人間を優先的に喰らう習性があるわ。同じラーメンがあったら、より美味しそうな方を選ぶでしょう? 同じ理屈よ」
「……あぁ、なるほど」
ようやく合点がいく。
<悪鬼>という存在が公に知れ渡れば、多くの人がアレに対して恐怖を抱くだろう。なにせ肉体を持たず、闇に溶け込んでいるのに、ただ血色の瞳が爛々と蠢くグロテスクな存在である。
パッとしか見ていないが、それでも<悪鬼>の姿は鮮明に覚えているほどだ。しかも人間では倒せないのが、更に恐怖を助長させる。
「妖怪を隠れ蓑にしたのか」
「えぇ。そして陰陽師を”妖怪を退治する者”として周知させて、大衆の恐怖を煽らないようにしたのよ」
「よく考えてるなぁ……」
確かに陰陽師が一気に有名になったのは、安倍晴明以降だ。彼は幾つもの式神を使役し、多くの逸話を残したという。
「その陰陽師の式神が、蒼華たち<月影>なんだ」
式神は陰陽師を補助する役目だったはずだが、実際のところは誰よりも前線に立って、<悪鬼>と戦ってくれている。……まぁ、そこはご愛嬌ということで。
恐らく、人間である<月光師>を陰陽師として目立たせたほうが、色々と楽だったのだろう。
そこまで考えたところで、ふと疑問を思いつき蒼華へと問いかけた。
「そういえば、<悪鬼>は突然現れたらしいけど、<月影>はどうなんだ?」
「私たちも突然現れた……らしいわ」
「らしい?」
言い淀む蒼華に、俺は首をかしげる。だが蒼華は首を横に振って「ごめんなさい」と表情を曇らせた。
「詳しいことは私もわからないの。私自身、気がついたら存在していた。……ただ、<悪鬼>を倒すっていう、明確な目的は最初から持っていたわね」
どうやら本当にわからないらしい蒼華は、これ以上の話を妨げるように一つ喉を鳴らした。
「とにかく、これで私達の関係は理解できたかしら?」
「あ、うん。大体は。事実は小説より奇なり……なんて言うけど、本当だなって確信したよ」
「確かに、陽斗にとってはそうかもしれないわね」
彼女は喉を潤す為か一口お茶を飲むと、こちらを見る。どうやら完全に話題が切り替わるらしい。
「それじゃあ、今日ふたつ目の本題。陽斗、貴方には――」
真剣な瞳が、俺を射抜く。
「――【月光術】を扱えるようになってもらうわ」
「げっこう、じゅつ?」
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