入籍未遂

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「僕は透明人間になりたい」 そう言い出したジュン君の言葉を台所で大根を切りながら聞いていた私は遂に彼がおかしくなったと勘違いして、包丁を持ったまま彼が座っているリビングのソファーに駆け寄って行った。 彼は瞳孔が開いたまま包丁を持って駆け寄ってくる私に恐れを抱いたのか情けない声で「ひぇっ」という素っ頓狂な声を上げて腰を抜かしている。 「透明人間になりたいってどういう事よ。あんた、まさかマユちゃんとの結婚式逃げるつもりじゃあないでしょうね?」 鬼の形相でそう詰め寄る私にジュン君は慌てた様子で「違う違う」と言って持っていたスマホの画面を差し出した。そこには彼が好きなコミックバンドの新曲リリース記事が表示されて、新曲タイトル「僕は透明人間になりたい」という文字が太字で書かれていた。 なーんだ。そう言って台所に戻ろうとする私の背中越しにジュン君は「今更逃げるわけないだろ」という言葉を投げかけてきた。 それもそうか。ジュン君の性格上、もう四年も付き合っていて、妊娠までしているマユちゃんと今更別れることなんて万に一つもありえない。 なのに私はどうしてジュン君が逃げるなんて想像をしてしまったのだろうか。 「ねぇ、叔母さんまだ帰って来ないの?」 「うーん。そろそろだと思うけど」 そう言いながらリビングの時計に目を向けると既に夜の七時を過ぎていた。明日はジュン君と彼女のマユちゃんの結婚式だ。そんな大切な日の前日だというのに律儀なジュン君はうちの母に独身最後の挨拶をしに先程急に押しかけてきたのである。 私とジュン君はいとこ同士で、私は母がシングルマザーだったこともあり母の妹の唯子さんの家によく預けられていた。 看護婦の母が夜勤の時はよくジュン君の家に泊まって、一緒にご飯を食べ、お風呂にも一緒に入っていた。そんな生活も小学生までで、中学生になると滅多に泊りに行くことはなくなったが、歳が近い私たちはいとこでありながら殆ど兄妹の様に過ごしてきた。 ジュン君は私より二つ年上だけど泣き虫で、優しくって、虫の一匹も殺せない様な男の子だった。昔彼の家に現れたゴキブリを私がスリッパで退治したとき、まだ小学生だったジュン君は「どうして殺しちゃうの?」と言って涙を流した。かわいそうだと言うジュン君に私は驚きながらも、子供ながらに愛おしい気持ちを抱いたことを覚えている。 今でも家にゴキブリが出ると自分ではなく彼女のマユちゃんに退治してもらっているらしい。ジュン君らしくて笑えるけど、マユちゃんはゴキブリが出るたびにあたふたするジュン君にうんざりする事だろう。そんな彼女の表情が簡単に想像できて笑えたが、やっぱりジュン君はマユちゃんに愛想をつかされないためにもゴキブリの一匹くらい退治できるような男になってもらいたいものだ。 でも、もしかしたらマユちゃんは28歳になっても虫の一匹も殺せない、そんな優しいジュン君を好きになったのかもしれない。私が幼い頃に抱いた感情を彼女もジュン君に感じたりしたのだろうか。 そう考えると胸の奥がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。 「母さん待つならジュン君も夜ご飯食べていく?」 「うーん、いいや。家でマユがご飯作って待ってるし」 「そっか。そうだよね」 ジュン君と二人きりでこうやって話すのは久しぶりだった。お互い社会人になってから会うことも、連絡を取り合うことも減っていて、私が彼を目にする機会といえばもっぱらSNSに投稿する彼女とのツーショットの写真ばかりだった。その写真もマユちゃんのアカウントから発信されるもので、私は彼自身が元気で暮らしているのかという事もジュン君の彼女のアカウントを通じて目にしていた。 だから久方ぶりにジュン君の名前がスマホに表示されたとき、私は驚いて思わずスマホを床に落としそうになった。そして電話に出た彼の口から「結婚することになった」と告げられたとき、今度は本当に床にスマホを落っことしていた。 しかも「マユが妊娠しているんだ」と言った彼の言葉に私はそれはもう盛大に驚いて、20回は「本当に?」と聞き返しただろう。 あの弱虫のジュン君がデキ婚ねぇ。 そう考えると私たちはいつの間にかものすごく大人になった様な気がした。確かに周りの友達も結婚したり、子供を産んだりしている。でもなぜかジュン君だけはそういう類のものとは縁遠い場所にいる様な気がしていたのだ。 でもそれは私のただの勘違いだった。いや、ジュン君にはそうあってほしいという私の身勝手な願望だったのかもしれない。 なんとなく結婚や子供なんてまだまだ先のような出来事に思っていたし、私よりジュン君が先に結婚するだなんて思ってもみなかった。 だからだろうか。ジュン君が結婚すると言って私に電話をしてきた夜、私は胸がなんだかずっとざわざわと騒がしくって眠ることができなかった。
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