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「ねぇ、ミカコは彼氏とどうなの?」
「どうなのって、とっくの昔に別れてるけど」
「え、あのショップ店員と別れたの?」
「言ってなかったけ?」
ジュン君は「聞いてないよ〜」と不満そうな顔で私を見たけど、私は彼氏ができたことも彼に直接は伝えていない。きっとうちの母がジュン君の母に話したことが彼に伝わっただけだろう。
「ミカコは結婚とか考えてないの?」
「まだない。というか一生できる気がしない」
「婚活したら?最近はマッチングアプリも流行ってるじゃん」
「いや、今はそこまで彼氏が欲しいとは思ってないんだよね」
そう言いながら切った大根を味噌汁の出汁の中に放り込むと、行き場のない自分の気持ちまで鍋の中に放り込んだ様な気がした。
私は恋愛というものが苦手だ。好きと言ったり、手を握ったり、キスをしたり。その愛が永遠に続くと思ったことはない。いや、そういう愛の言葉が永遠だと信じていたのは小学生の時までだった。
「ねぇ、俺たちが昔冗談で書いたあの紙ってまだ持ってる?」
「紙?なにそれ?」
「いや、小学生の時に書いたじゃん。それで、俺がミカコに渡したやつ。覚えてないの?」
「小学生の時の話でしょ?覚えてるわけないじゃん」
私がそう言うとジュン君はやけに真面目な顔をして私の方に一歩ずいっと踏み出して「本当に、覚えてないの?」と言った。私はそんな彼の真面目な表情に戸惑い、なんて答えたらいいのか分からず、唇の端をぎゅっと噛んで彼から目を背けた。
そしてジュン君が私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた瞬間、彼の左手にあったスマホがピローンと間抜けな音を出す。彼は私に触れかけた手を引っ込めると着信を知らせたスマホに視線を落とした
「マユちゃんから?」と言う私の問いにジュン君は返事することもなくただ微笑むだけで、そのまま着ていたスーツの内ポケットにスマホをしまい込む。
私はそれ以上何も聞けなくて、ただ台所の流しを見つめることしかできなかった。
シンクの中にはさっき切った大根の皮の切れ端がくっ付いていて、まるで過去の思い出にへばり付いている私みたいだな、となんとなく笑い出しそうな、泣き出しそうな、自分でもよく分からない気持ちになった。
「最後に挨拶したかったけど、おばさん遅いみたいだし、もう行くよ」
ジュン君の言葉に私は背を向けて、出汁の中で茹でられる大根を混ぜながら頷いた。
今彼の顔を見てしまったら余計な事を言ってしまいそうな気がして怖かった。
「ミカコも早くいい人見つけろよ」
「余計なお世話なんだけど。そっちこそ明日の結婚式頑張りなよ」
「何を頑張るんだよ」
「ほら、誓いの言葉とか、両親への手紙とかさ。ジュン君泣き虫だから、ちゃんと最後まで読めるかどうか」
「読めるに決まってるだろ?何回も練習させられて感動もクソもないよ。ミカコこそ明日は遅刻するなよ」
しないわよ、そう言おうと思って振り返るとジュン君は小学生の時と同じ泣き虫で、情けない顔をして私を見つめていた。
そして私はそんな彼の表情を見てられなくてパッと目を逸らし「マユちゃんが待ってるんだからさっさと帰りな」と彼に背を向けたまま言った。
少しの沈黙の後「じゃあな」と言うジュン君の声に私は振り返らなかった。ただ玄関が閉まる音を聞きながら、自分の体の力が抜けていくのを放心状態で感じていた。
ふつふつと煮える出汁の中で踊る大根を見ながら、私は急に心細くなって台所に座り込んだ。すると再び玄関が開く音がして、ジュン君が戻って来たのかと思い急いで立ち上がる。しかし台所に顔を出したのは彼ではなく母親の方だった。
「さっき潤一郎君とすれ違ったけど、うち来てたの?」
「うん。独身最後の挨拶だって」
「へぇ。あの子も律儀ねぇ」
「そうだよ。お母さんのことずっと待ってたんだからね」
私がそう言うと母は何故か声を出して笑った。私はそれが何故か分からなくって「どうしたの?」と声をかけた。
母は来ていた上着をハンガーにかけながら「私に挨拶しに来たんじゃなくて、ミカコに挨拶しに来たんでしょう?」と微笑んだ。その微笑みの中には少し悲しそうな、残念そうな表情が見てとれて、私はどうして母がそんな表情をするのか分からなかった。
「なんで私になんかに挨拶するのよ。ただのいとこじゃない」
「あんた覚えてないの?小さい頃潤一郎君にプロポーズされたんだよ?」
「小学生の時の話でしょ?」
「うん、でもね、そのあと彼、子供のくせにやけに真剣な顔でね、僕とミカコちゃんは結婚しちゃダメだってママが言ったんですけど、本当ですか?って私に言ってきたのよ。もうそれが可愛くってさぁ」
母はそう言いながら冷蔵庫を開けて冷えたビールの缶を二本取り出すと、一本を私に渡して、もう一本の缶を自分で開けてゴクゴクと音を立てて喉に流し込んだ。
手渡されたビールを何故か私は飲む気になれなかった。母はそんな私を見ながら「潤一郎君の初恋はミカコだったのね」と言って微笑んだ。
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