富察氏美蘭

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* * * 紫禁城での暮らしは、しきたりや確執、噂での諍いに満ちていた。義母となった熹貴妃様との関係もある。 格格や福晋が集まれば、他の妻の話題には事欠かない。 「美蘭様、嫡福晋となってすぐに御子に恵まれるとは羨ましいものですこと。前世でどのような徳を積まれたのでしょうね」 「ありがとう、けれど公主だわ。皇子に恵まれた桃華の方が前世でよほど徳を積んだのね」 桃華──富察桃華は、わたくしが嫡福晋に選ばれた時に格格として輿入れした者だ。同じ富察氏でもわたくしの一族ではない。家格も劣る。彼女は、わたくしが公主を産んだ同じ年に皇子を産みおおせて弘暦様を喜ばせ、──けれど格格からの格上げはなかった。 桃華は、焦れているのであろう。格格の子は所詮庶子でしかない。初めての皇子を産み、勝妾として扱われても、それでも格格だ。その鬱憤を晴らすように、その場にいない玉巵を話題に出した。 「玉巵の方が遥かに徳を積んでいたようですわ、子もなしていないのに格格から側福晋に昇格したのですもの。夜伽にも頻繁に召されますし、──ですけれど」 そこで桃華は含み笑いをした。玉巵を嘲るような面持ちで、声をひそめる。椅子から身をわずかに乗り出し、隣に座るわたくしの耳許に囁きかけた。 「ご存知ですか? 玉巵は夜伽では俯陰就陽や口唇奉仕をして悦ばせておいでだとか……」 内容は、あまりにも玉巵を下劣に思わせるものだった。わたくしは目を見張り、桃華を見つめた。桃華は悪戯を企むような笑いを瞳にたたえている。 「口淫は禁忌だわ、はしたないでは済まされない。それは出どころのない噂ではなくて?」 「火のないところに煙は立ちませんわ。だから玉巵は子宝に恵まれないのでしょうね。口唇で精を啜っては孕めませんもの」 このような下品な会話も、嫁ぐ前には経験したことのないものだった。わたくしは富察一族のなかで、真綿にくるまれて育っていたのだと輿入れしてから思い知らされていた。 絶句して言葉を探していると、侍女が「玉巵様がおみえになりました」と恭しく告げた。桃華は玉巵を疎んでいるのか、あからさまな渋面を作って「美蘭様、わたくしは戻りますわ。また共にお茶を飲んでくださいませ」と告げて立ち上がった。 桃華と玉巵がすれ違う。ふくよかな笑みをたたえて入室してきた玉巵に、刹那、桃華は冷ややかな眼差しをぶつけて二人は挨拶もせずに離れてゆく。 わたくしは玉巵に何と声をかけてよいものか分からなかった。直前に桃華から聞かされた話に心を乱されていた。 それを知るよしもない玉巵はわたくしの前で膝をおり、片手をあげて「嫡福晋にご挨拶しますわ」と見た目は楚々として口上を述べた。 「ええ……楽にして。座りなさい」 「感謝致しますわ」 玉巵が桃華の座っていた椅子に座る。わたくしは、当たり障りのない話題を探した。 「御花園の花が見事なようね。皇太子様と皆で見に行けたら素敵でしょう」 「それは素晴らしいですわ、その時には、わたくしもぜひお招きくださいませ」 「ええ、もちろんよ。今宵にも皇太子様にも伺ってみましょう。」 おおように答えると、玉巵は気まずそうに──けれどどことなく卑しく目を細めた。 「今宵はわたくしが夜伽に召されておりますの。わたくしから伺いますわ」 また玉巵か──それが正直な気持ちだった。弘暦様は嫡福晋であるわたくしを重んじてご寵愛をくださるが、それを凌駕する玉巵への厚遇は折に触れて胸にさざ波ともささくれともいえるものを覚えさせた。 わたくしは笑みを作り、取り繕った。 「そう、玉巵は本当にご寵愛を身に集めていて羨ましいわ。詩作にも通じているし、聡明ですものね」 玉巵は、見抜いているであろう。愛想よく笑顔をたたえているが、その笑みは傲慢だ。その笑顔が、よこしまな色を見せた。 「嫡福晋様も、わたくしなどよりご寵愛を得られますわ。──わたくしが使うものを秘密でお教え致しましょうか?」 一体何なのか。先ほど聞かされた下劣な話を思い出し、わたくしは身構えずにいられなかった。玉巵はお構いなしに耳打ちしてきた。 「──犀角ですわ」 意外な言葉だった。 「犀角? それは熱冷ましの薬でしょう」 「ええ、そうですわ。けれどご存知ですか? 昔の書には、犀角を媚薬として用いると書かれておりますの」 わたくしには玉巵が人間に見えなく感じられてきた。ご寵愛の為に、手段を選ばないのか。彼女の求めるものは、一体どのようなものか……。 「媚薬だなんて、皇太子様に知れたら逆鱗に触れるわよ」 かろうじて言い返すと、玉巵は自信ありげに「犀角は熱冷ましですもの」と肩をすくめた。 「どうとでも言い訳は出来ますわ。劉侍医には処方を頼むわけにはいきませんが、当侍医になら銀子を与えておりますから安心して頼めますの。──嫡福晋様もいかが? 他の方には教えるつもりはありませんの、わたくしは蔑まれておりますから」 指先が強張り、冷えてくる。 返す言葉を失っていると、玉巵は「今日はご機嫌を伺いに訪れただけですのよ、夜伽の支度もございますし、不興を買ったようなら失礼いたしますわ、申し訳ございません」と悪びれる様子もなく言った。 夜伽──わたくしが最近務めたのは何日前であったか。夕餉を共にしたり、昼間に訪れて頂いたりと重んじて頂けている自覚はある、けれど──。 「……玉巵、犀角は本当に効果があるの」 「わたくしをご覧くださいな。お分かりでしょう?」 蛇のような目で玉巵が笑った。 「……当侍医になら、誰にも知られずに処方を受けられると断言出来て?」 真っ黒な墨に白絹が染まるような浸潤。玉巵は得たりや応と頷いた。 「熱冷まし、ですからね。ご安心を」 わたくしは何かが麻痺してくるのを感じた。 紫禁城で暮らすようになって一年半、わたくしは、ここは華やかな炎獄だと知りつつあった。
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