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「今日も時間ぴったりね。へそ曲がりおにーさん」
その日も同じ時間に現れた僕に、少女はいつもの微笑を向けた。僕は無表情に応える。
「ホントはもっと早く会いに来たいよ。暇だからね」
「あら、それはダメ」
「どうして?」
少女は答えなかった。凪の海みたいな瞳が、しばらくしてから僕を見つめる。
「……女の子には、お化粧する時間が必要なの」
「歯切れが悪いな」
「女の子の秘密を暴こうなんて、野暮なおにーさんだわ」
「僕はへそ曲がりだから」
僕が笑顔を模倣すると、少女はようやく元の顔で笑った。
「今日は野暮天おにーさんよ」
「勘弁願いたいね」
世界は今日も終わろうとしている。人の自殺はもう止まらなくなっているらしい。
それでも僕らの日常は何も変わらない。
日中を怯えながら乗り切って、夜になったら生きたがりの少女と他愛ない時間を共有する。
いつしか僕は、この生きたがりの少女に対して、ごくありふれた感情を抱き始めていた。
「そう言えば、おにーさんは知ってるかしら」
夜風に長い髪をたなびかせながら、少女は退屈気にぼやいた。風は少し冷たくなっている。
「もう、世界にほとんど人は残っていないんですって」
「ああ、そう言えば」
震える右手をポケットに突っ込んで、僕は頷く。僕らの不道徳な町にも、もう酒瓶の割れる音は響かなくなっていた。
「もうこの世界には、楽器は響かないのかもしれないな」
「楽器?」
小首を傾げた少女をちらりと見てから、僕はぽつりとつぶやく。
「戦争が無くなって、人々は楽器を手にするようになった。彼らの演奏には人間が必要だ。なのにもう人間はほとんど残っていない。それじゃあ楽器だって、人間と同じように死んでしまう」
そんなの悲劇じゃないか、と僕は言った。
古びてところどころが朽ち落ちた木製のベンチの上で、少女が身をよじる。
「でも、人が死んだ後の世界なんて見えないじゃない。存在しないのと同じだわ」
少女は浮かない顔をしていた。
もう何日も寝ていないような、青白く浅い呼吸で繋がれた脱け殻のように。その顔はとても生きたがりには見えなかった。
僕は少女の顔を覗き込む。
「……君は、死なないんだろう?」
「そうね。死なないわ、私たちは」
それから彼女は、じっと空を見上げた。
もう日付が変わる頃だろうか。今日に限って鳴らないスピーカーの静寂は、彼女の理性を少しずつ崩していく。
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