人生最良の日

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「よかったわ。おにーさんがいてくれて」  そんなことを、少女はいつもと違う口調で言った。  彼女が突拍子もないことを言い出すのには、もうなんとなく慣れている。  けれどその言葉は、どことなく嫌な予感がした。  例えば八月三十一日に見つけた、忘れていた宿題の束とか。思い出したくもないものと目が合ってしまった時の感覚と、それはひどく似ている。 「ずいぶん唐突な告白だ」 「冷やかさないで頂戴」  キッと少女の瞳が吊り上がる。  それから、月を見上げるような自然さで、少女は僕の肩に頭を預けた。  ややあって、温もりの中から言葉がことりと落ちてくる。 「おにーさんは何も信じてはいないから、とても好ましいのよ」  些細な。ほんの些細な違和感があった。  それは予感ではなかった。実感だった。  例えるなら、全力で走ったあとの息苦しさみたいな。胸の底で沸騰した感情が、言葉を連れて飛び出そうとする感覚。  その感情に「恋」なんて名前が着いた瞬間、僕の人生が終わり始めたような気がした。 「本当は、ずっと一緒にいたいくらい」  ポツリポツリと、少女は言葉をこぼす。  月が冷ややかに僕を見下ろしている。世界も僕も終わっていくのに、きっと今日は人生最良の日だった。だからこそ、それがどうしようもなく悲しくて、たまらなく怖い。  だって僕は、もう彼女を手に入れられないんだ。 「ねぇ、おにーさん?」  少女の囁きが鼓膜を揺すった。  心地よかった、嬉しかった、ずっとこうしていたかった。けれどもう、その時間は残されていなかった。 「もし世界が終っても、おにーさんとなら──」  だからこそ、そこから先の言葉だけが聞きたくない。  僕は少女の肩を掴んで勢いよく引き離す。驚く彼女から目を逸らして立ち上がる。 「……今日は意気地なしなのね」  生きたがりの少女が哀しげに呟く。  僕は走りだす。バタバタと、死にゆくメダカの足掻くように。  無性に怖くなった。  世界が終わってしまうことよりも、生きたがりの少女との時間が崩れていくことが。少女がくれた幸せを失うことが、何よりも恐ろしかった。  僕は溺れるように家へと急ぐ。  その日、スピーカーは残りの日数を放送しなかった。
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