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「くーるくる。くーるくる。世界はまわるー」
真っ黒な部屋、低い声で歌う。
幼い頃、姉に教えてもらった。
ここには俺しかいないけど、誰にも聞こえていないことを祈っていた。
窓の向こうは夜が広がっている。
今日は風もなく、世界は穏やかだ。
月が綺麗だ。黒く塗りつぶされた空に浮かんでいる。
そういえば、姉ちゃんもこんな月の夜が好きだったことを思い出した。
月に行きたいって、いつも言っていた。
「ぐーるぐる。せかいはまわあって……」
おやすみの向こう側にいる姉ちゃんにも聞こえているかな。
この声が届いていればいいな。
一緒に歌ってくれるかもしれない。
「きーらきらきーらきらと輝いて、輝いて……」
今は遠くにいる。おやすみの向こう側の世界。
おやすみの向こう側ってどこにあるんだろう。
夢の世界じゃないって言っていたし。
でも、口にするたびに懐かしく思う不思議な国だ。
「どーこかに流れていくー……」
続かなかった。俺と違って平和な生活を望んだ。
毎日じゃないけど、必ず会えるのは分かっていた。
だから、離れることになっても耐えられた。
「こんなところに追いやられてもなあ」
すみっこの病室は怖い。人がいないのだ。
光にも影にも空気にすら、生き物がいない。
ここに運ばれてから、半年近く経っている。
ケガはだいぶ治ってきた。
向こう側からの声は今も聞こえる。
急かされても困るよ、行き方が分からないんだもん。
「俺に殺されたのに、何で呼ぶの? 嫌じゃないの?」
返事はない。困ったように立っているだけだ。
「じゃあ、明日まで待つよ。おやすみなさい」
ベッドに潜り込む。
向こうの世界から返事はなかった。
***
「おはよー。今日も元気だね」
「お前も元気そうだな」
だいぶ包帯も取れてきて、今は松葉杖をついて歩いている。
病室から出たがらず、部屋に入り浸っているらしい。
必要最低限の行動しかしないのを信濃は気にしていた。
「お前、そのうちカビ生えるぞ」
「もしかしたら、部屋のどこかに生えてるかもね。
俺、ずーっとここにいるわけだしさ」
彼は皮肉っぽく笑った。
「昨日、俺に殺されたのに何で呼ぶのって聞いたんだ。
そしたらね、死んだのは俺のせいじゃないって、今朝言われたんだ」
「何度も言っているだろ。
全然関係ない人が巻き込まれたんだよ」
「それは分かってるよ。でもさ、何で来てくれないの?
いつもだったら、すぐに来てくれるでしょ。
つまり、そういうことなんじゃないの?」
しばしの間、沈黙が下りる。彼の言う通りかもしれない。
このところ、ずっと連絡が取れないのだ。
嫌な想像が脳裏から離れない。
「姉ちゃんが言ってたよ。
おやすみの向こう側の世界って、夢の世界じゃないんだって。
寝ているわけじゃないのに、何で見えるんだろうね」
幻覚ではなく、姉の霊が見えている。
死ぬ間際の人間みたいじゃないか。
「お前、自殺とかしないよな?
戻ってくるって、言ったもんな?」
「……退院しても呼ばれてたら、どうすればいいかな」
幻覚がずっとつきまとい、悪夢の中に捕らわれている。
しかも、唯一の家族がそこにいるというではないか。
血の繫がりのない自分ではどうにもできない。
「その時は、お前の好きにすればいいさ。
ただ、俺に必ず言えよ。じゃないと、後が大変なんだから」
「分かった。そうする」
幻だと否定できれば、どれだけよかっただろうか。
お前が狂っていると言えれば、どれだけよかっただろうか。
見えている物は見えている。そこにあるものはそこにある。
当たり前だが、人は自分の見えている物の中で生きている。
幻覚だろうと、それは変わりはない。
***
彼に外出の許可が下りた。
ひさしぶりに外の空気が吸いたいと言って、俺の付き添いの元に散歩することにした。
松葉杖をつきながら、ゆっくりと波止場を歩く。
誰もいない。あの夜と同じだ。
「波の音は怖くないのか?」
「全然。聞いてる暇もなかったし」
潮が混じった空気は重い。
波はきらきらと輝き、心地よさそうだ。
「もっと高いところから海を見たいけど、これじゃきついかな」
のんびりと笑いながら、坂道のほうへ進む。
案外、自分のペースで進む方が彼の性に合っているのだろうか。
波止場から離れ、林道に入る。
松葉杖は綺麗に拭かなければならない。
舗装された散歩道なら多分、大丈夫だろう。
「ここはいいね、病院と違ってすごく明るい」
「楽しいか?」
「すごく気持ちいい」
木漏れ日がさしこむ木々を見上げ、ため息をついた。
この上にある展望台に行くと思っていたが、道を外れた。
雑草をかき分けながら、迷いなく進む。
どこに行くつもりだろうか。
彼の後について行くと、木々を抜けた先は崖っぷちだった。
遮るものは何もなく、青い海が広がっている。
「ここ、姉ちゃんとよく来たんだ。綺麗でしょ?」
「こんなところ、よく見つけたな」
「二人で遊んでいる時に、たまたま見つけた。
道はあったけど、真下が海だからね」
「まあ、普通は行かないわな」
「けど、すごく綺麗なんだよ。
こんな場所を誰も知らないんじゃ、悲しいでしょ?」
俺に松葉杖を預け、近くの木に手をつけて前に進む。
海に導かれているように見えた。
「おやすみの向こう側に行くのか」
足を止めて振り返った。
さっぱりとした表情を浮かべていた。
皮肉にも青空が広がっていて、旅立ちの日にふさわしい姿をしていた。
「退院してからじゃ、遅いんだ。きっと。
姉ちゃん、せっかちだからさ」
「そっか」
「戻ってくるって言ったのにね、ごめんなさい」
「気にするな。いい夢見ろよ」
「最後まで本当にありがとう。おやすみなさい」
押し倒すように木から手を放し、体を投げ出した。
彼はおやすみの向こう側へ旅立った。
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