1人が本棚に入れています
本棚に追加
あの夜を境に、彼の人格が変わってしまったようだ。
電池が切れた様な表情を浮かべ、ゆるい笑顔を見せる。
彼を縛っていた糸が切れたように思えた。
「もういいんだ。俺には何も残されていないんだから」
そんなことを言うようになった。
彼には晴奈という姉がいる。
ここから離れた場所で暮らしており、ごくたまに顔を見せに来る。
両親はすでに他界し、たった二人きりの家族だ。
まさか、彼女の代わりに別人の頭を利用したのだろうか。
生命線とも呼べるべき存在と勘違いさせるために、用意したのだろうか。
「あの頭は君の家族じゃない。まったく別人だったんだ」
「……そっか。違う人だったんだね」
私がいくら言っても、要領を得ない。
反応は薄く、話を信じているようには見えなかった。
「向こうからね、呼ばれているんだ。
ケガが治ったら、俺も行けるかなあ」
「元気になったら、どこにでも行けるさ」
「そっかー。楽しいところに行けたらいいね。
俺、海に生きたいなあ。緑色が綺麗な海」
穏やかに笑う。
死期を悟った老人のようだ。
***
彼の病室に通っているうちに、信濃から呼び出された。
気づけば1ヶ月近く経っていた。
「この前、言ってたんです。自分には家族はもういないって。
お姉さんを自分の手で殺したんだって。
彼が抱えていたっていう生首の方とは、関係ないんですよね?」
「まったくの別人なんですが、そう言っても聞かないんです」
「自分で殺したと思っているみたいなんです。
向こう側からお姉さんが怖い顔で見てるって、いつも言ってて」
一度言ったら譲らない。
頑固さが裏目に出てしまった。
「どうにか説得できませんか。
このまま退院しても、いいことないと思うんです」
説得できないかと言われても困る。
私の話を聞いているかどうかも分からない。
今日も様子を見るために、足を運んだ。
「毎日飽きないね。俺は何もできないのにさ」
初めて見る顔ばかりで、どう対応すればいいか分からない。
「飽きるも何もないだろ。
こっちは気になって夜しか眠れないってのにさ」
「迷惑かけて本当にごめんなさい」
しゅんとうなだれる。子どものような仕草だ。
「加賀の名前を聞いたら、いても立っていられなかったんだ」
「気にしなくていいよ、そんなこと。
みんな心配してるんだ。元気な姿を見せてやれ、な」
その一言で彼は元に戻る。
穏やかな表情は消え失せ、ゾッとするような冷たい目を向ける。
「みんなって誰のこと。俺に家族はいないよ。
何度言えば分かるのさ」
「あの頭は全然関係ない人だよ」
「ちがう! そんなこと絶対にない!
俺が殺したんだ! 守れなかったんだよ!」
「何言ってんだ! あの子は生きてるよ!
今、来られないだけなんだよ!」
「じゃあ、何で向こうにいるんだよ!
あっちに俺は行けないだろ。そんなの、おかしいよ……」
声を荒げ、ある程度自由になった腕で俺を軽く殴る。
大量の涙を流し、喚く。
病院に運ばれてきたとき、大変だったと言っていた。
幼い子供のような反応を見せていたというのか。
「こっちに来てって言ってるのに、来てくれないんだよ?
どうやったら、こっちに来てくれるの?」
こっちとか向こうとか、訳が分からない。
彼には何が見えているのだろうか。
「ずーっと呼んでるんだよ、俺のこと」
「誰が?」
「俺が殺したのに、何で呼ぶんだろうね。
嫌じゃないのかな……」
勘違いをさせるのが目的なら、ある意味成功している。
生首を姉と思わせ、殺したと錯覚させた。
「ね、今日はどんなお菓子持ってきてくれたの?
病院のご飯は味がなくて、気味が悪いんだ」
涙を袖でぬぐう。
ポケットからアメを取り出して、口に放り込んでやる。
動物に餌付けしているみたいだった。
***
2,3ヶ月近く経ったが、人の話を受け入れられる状態じゃない。
頭や家族と言った単語に敏感に反応し、拒絶する。
あの生首は彼の心を深く傷つけたらしい。
「心に傷を負い、立ち上がれなくなる奴は何人も見てきました。
人格も攻撃的なそれに変化するし、人を信用できなくなるのもまた事実です。
けれど、彼の場合は何か違う気がするんですよね」
「心の傷は見えないから厄介なんです。
一生治らないことだって、ありえるんですから」
どうすることもできず、自ら死を選んだ奴だっていたじゃないか。
傷を抱えたまま、生きている奴だっている。
今の彼はどれにも当てはまらない。
現実逃避なんてものじゃない。
違う何かが彼には見えている。
もし、あの性格のままで退院したらどうなるのだろうか。
これまで通り、戦うことはできるのだろうか。
あの日の夜の生首を思い出してしまうのではないか。
そうなった場合、どうすればいいのだろうか。
「なあ、私たちの元に戻る気はあるか?」
「何言ってるの、俺はどこにも行けないんだ。
戻るしかないでしょう」
手のひらをぼんやりと見つめながら、のんびりとした口調で返す。
「戻った後、これまで通りにやれると思うか?」
「どうだろうなあ……俺ね、もう何もないんだよ。
何も残ってない。だからね、今まで以上に無茶しちゃうかもしれない。
それを許してくれるなら、頑張ってみるけど」
「何も残っていないわけないだろ。
お前には帰る場所も待っている人もいるんだよ」
「でも、そこに姉ちゃんたちはいないでしょ?」
ぴしゃりと空気が凍りついた。
ここのところ、彼女と連絡が取れていないのだ。
必ず折り返してくるはずだが、さっぱり音沙汰がない。
「今は自由だから、俺に会いに来てるんだって。
姉ちゃんが言うにはね、ちょっと頑張りすぎちゃったんだって。
頑張るのが嫌になって、全部捨てたみたい」
会話が噛み合わない。
俺の話を遮って、自分の話を続けようとする。
自己主張の激しい幼い子供のようだ。
最初のコメントを投稿しよう!