おやすみのむこうがわ

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あの夜を境に、彼の人格が変わってしまったようだ。 電池が切れた様な表情を浮かべ、ゆるい笑顔を見せる。 彼を縛っていた糸が切れたように思えた。 「もういいんだ。俺には何も残されていないんだから」 そんなことを言うようになった。 彼には晴奈という姉がいる。 ここから離れた場所で暮らしており、ごくたまに顔を見せに来る。 両親はすでに他界し、たった二人きりの家族だ。 まさか、彼女の代わりに別人の頭を利用したのだろうか。 生命線とも呼べるべき存在と勘違いさせるために、用意したのだろうか。 「あの頭は君の家族じゃない。まったく別人だったんだ」 「……そっか。違う人だったんだね」 私がいくら言っても、要領を得ない。 反応は薄く、話を信じているようには見えなかった。 「向こうからね、呼ばれているんだ。 ケガが治ったら、俺も行けるかなあ」 「元気になったら、どこにでも行けるさ」 「そっかー。楽しいところに行けたらいいね。 俺、海に生きたいなあ。緑色が綺麗な海」 穏やかに笑う。 死期を悟った老人のようだ。 *** 彼の病室に通っているうちに、信濃から呼び出された。 気づけば1ヶ月近く経っていた。 「この前、言ってたんです。自分には家族はもういないって。 お姉さんを自分の手で殺したんだって。 彼が抱えていたっていう生首の方とは、関係ないんですよね?」 「まったくの別人なんですが、そう言っても聞かないんです」 「自分で殺したと思っているみたいなんです。 向こう側からお姉さんが怖い顔で見てるって、いつも言ってて」 一度言ったら譲らない。 頑固さが裏目に出てしまった。 「どうにか説得できませんか。 このまま退院しても、いいことないと思うんです」 説得できないかと言われても困る。 私の話を聞いているかどうかも分からない。 今日も様子を見るために、足を運んだ。 「毎日飽きないね。俺は何もできないのにさ」 初めて見る顔ばかりで、どう対応すればいいか分からない。 「飽きるも何もないだろ。 こっちは気になって夜しか眠れないってのにさ」 「迷惑かけて本当にごめんなさい」 しゅんとうなだれる。子どものような仕草だ。 「加賀の名前を聞いたら、いても立っていられなかったんだ」 「気にしなくていいよ、そんなこと。 みんな心配してるんだ。元気な姿を見せてやれ、な」 その一言で彼は元に戻る。 穏やかな表情は消え失せ、ゾッとするような冷たい目を向ける。 「みんなって誰のこと。俺に家族はいないよ。 何度言えば分かるのさ」 「あの頭は全然関係ない人だよ」 「ちがう! そんなこと絶対にない! 俺が殺したんだ! 守れなかったんだよ!」 「何言ってんだ! あの子は生きてるよ! 今、来られないだけなんだよ!」 「じゃあ、何で向こうにいるんだよ! あっちに俺は行けないだろ。そんなの、おかしいよ……」 声を荒げ、ある程度自由になった腕で俺を軽く殴る。 大量の涙を流し、喚く。 病院に運ばれてきたとき、大変だったと言っていた。 幼い子供のような反応を見せていたというのか。 「こっちに来てって言ってるのに、来てくれないんだよ? どうやったら、こっちに来てくれるの?」 こっちとか向こうとか、訳が分からない。 彼には何が見えているのだろうか。 「ずーっと呼んでるんだよ、俺のこと」 「誰が?」 「俺が殺したのに、何で呼ぶんだろうね。 嫌じゃないのかな……」 勘違いをさせるのが目的なら、ある意味成功している。 生首を姉と思わせ、殺したと錯覚させた。 「ね、今日はどんなお菓子持ってきてくれたの? 病院のご飯は味がなくて、気味が悪いんだ」 涙を袖でぬぐう。 ポケットからアメを取り出して、口に放り込んでやる。 動物に餌付けしているみたいだった。 *** 2,3ヶ月近く経ったが、人の話を受け入れられる状態じゃない。 頭や家族と言った単語に敏感に反応し、拒絶する。 あの生首は彼の心を深く傷つけたらしい。 「心に傷を負い、立ち上がれなくなる奴は何人も見てきました。 人格も攻撃的なそれに変化するし、人を信用できなくなるのもまた事実です。 けれど、彼の場合は何か違う気がするんですよね」 「心の傷は見えないから厄介なんです。 一生治らないことだって、ありえるんですから」 どうすることもできず、自ら死を選んだ奴だっていたじゃないか。 傷を抱えたまま、生きている奴だっている。 今の彼はどれにも当てはまらない。 現実逃避なんてものじゃない。 違う何かが彼には見えている。 もし、あの性格のままで退院したらどうなるのだろうか。 これまで通り、戦うことはできるのだろうか。 あの日の夜の生首を思い出してしまうのではないか。 そうなった場合、どうすればいいのだろうか。 「なあ、私たちの元に戻る気はあるか?」 「何言ってるの、俺はどこにも行けないんだ。 戻るしかないでしょう」 手のひらをぼんやりと見つめながら、のんびりとした口調で返す。 「戻った後、これまで通りにやれると思うか?」 「どうだろうなあ……俺ね、もう何もないんだよ。 何も残ってない。だからね、今まで以上に無茶しちゃうかもしれない。 それを許してくれるなら、頑張ってみるけど」 「何も残っていないわけないだろ。 お前には帰る場所も待っている人もいるんだよ」 「でも、そこに姉ちゃんたちはいないでしょ?」 ぴしゃりと空気が凍りついた。 ここのところ、彼女と連絡が取れていないのだ。 必ず折り返してくるはずだが、さっぱり音沙汰がない。 「今は自由だから、俺に会いに来てるんだって。 姉ちゃんが言うにはね、ちょっと頑張りすぎちゃったんだって。 頑張るのが嫌になって、全部捨てたみたい」 会話が噛み合わない。 俺の話を遮って、自分の話を続けようとする。 自己主張の激しい幼い子供のようだ。
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