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江戸に、次三郎という男がいた。
そろそろ女房が欲しいと思っていたが、気は優しいが甲斐性なし。
生業は猫のノミ取り屋で、江戸は今空前絶後愛玩動物である。
今日も今日とてお猫様のノミをとり終えた次三郎は、笠を深くかぶった易者に出会った。
「申し。そこの方。儂が占ってしんぜよう」
「へ? あっしの事ですかい? 占いなんてぇ当たるも八卦当たらぬも八卦でしょう」
「儂もまだ修行の身、銭はいりません」
「銭がいらねぇならいいや。あっしもそろそろ女房が欲しい。猫のノミ取り屋でも構わねぇ、心の広い女が良い」
次三郎がそう言うと、易者は卜筮を使って占い始めた。しばらく待てば結果が出ると言う。
「どんな女房でも構わないのかい?」
「別嬪でも、ひょっとこでもあっしは気にしないさ。気の強いカァチャンはちょいと恐ろしいけどねぇ」
「ふむ。顔はともかく相性は抜群のようだ。ここから西へ向かうと良い、次三郎」
「ここから西っていやぁ、越前屋があるくらいなもんだ。そう言えばあそこには別嬪の年頃の娘がいたなぁ」
しかし、なんであっしの名前を? と問いかけようとするとそこには易者の姿はなくトラ猫が次三郎を見上げているだけで、念を押すようにニャンと鳴いた。
「お前さんは昼間のお侍様の猫じゃねぇか。もしや、ノミ取りの恩返しじゃあるめぇな……まぁ、いいや。日が暮れちまう前にちょいと行ってみるか」
冗談交じりに言ってみたが、煙のようにパッと消えた易者の事を思うとそれもあながち間違いとは言い難い。
狐や狸に化かされているかも知れないがここは天下の江戸だ。
越前屋の手前に着く頃にはすっかり日が落ちてしまっていたのだが、橋の上で鼻輪が切れたのか美しい後ろ姿の女が座り込んでいる。
やや、あれは易者のいう女房になってくれる娘かも知れないと、次三郎は浮足立って女に声をかけた。
「もし、そこの。鼻緒が切れたんならあっしが直しましょう」
「しくしくしく……いいえ。悲しくって泣いているんですよぅ。妾を捨てたあの人が憎らしくてねぇ」
「そりゃあ……てぇへんだ。良ければあっしが話を聞きますぜ」
「……本当に? これでも?」
しくしく泣いていた女が振り向くと、目も鼻も無い。お歯黒をべったり塗られたのっぺらぼうの女がケタケタ笑っていた。
たいていの男なら腰を抜かして逃げて行くが次三郎は目をパチクリさせた。
「お前さん、妖怪の類かい?」
「そ、そうだけど……お前さん、逃げないのかい?」
「目も鼻も無いが、口が聞けるならいいや。易者に西に行けばあっしの将来の女房が見つかると聞いたんだ。お前さん……あっしと夫婦になってくれねぇか」
この次三郎、ひょっとこでも何でもいいと言ったがまさかの妖怪の女房とは思わず、ガハハと大きく笑った。
お歯黒べったりはこの脳天気な人間の求婚に驚きを隠せなかったが頬を染めた。
「妖怪に袖にされたのは本当だけどさ。お前さん本当に正気かい?」
「本気も本気だ。猫のノミ取り屋でいいならな。あっしは次三郎、あんたの名前はなんていうんだい」
「……お露」
「お露さん、祝言をあげねぇとな」
お露は顔を赤らめてうなずいた。
ボロ長屋にお歯黒べったりを連れ帰った時はみんな腰を抜かしていたが、次三郎とお露は祝言をあげ夫婦になった。
お露は口が達者で次三郎思いだったので、すぐに江戸で評判になり、次三郎のひょうきんさとお露の舞踊で芸事を始めた。
世にも珍しいおしどり夫婦の噂はお上にまで知れ渡り、将軍様の前で芸事をするまでになると大判小判の褒美を受け取り、子孫にも恵まれ末長く幸せに暮らしたと言う。
さてはて、猫のノミ取りをした恩返しなのか日頃の信心のお陰なのか。
それはお天道様のみが知るお話でございます。
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