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里中女学校前
<次停まります。ご乗車ありがとうございました>
一斉に停車ボタンが赤紫色に光り、表情のない電子音の女性がアナウンスする。どうやら通路を挟んで隣の席に座る老婆がボタンを押したようだ。こんな時間に一人でバスに乗っている老婆は珍しい。傘は持ってないようだけど大丈夫かしら。そんな事を思いながら老婆の顔を見て私は少しぎょっとした。老婆は笑っていたのだ。皺だらけでくしゃくしゃの顔を更に歪ませて、声を出さずに笑っていた。私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、目を逸らしてしまった。
「里中女学校前、里中女学校前です」
やがて、運転手が停車駅を告げてバスが停まった。里中女学校前。そんな停車駅は私の帰路にはなかった。
……しまった、バスを間違えたんだ
現在位置を確かめようと窓の外を見渡して、私は異変に気が付いた。窓の外が異様に明るかったのだ。夜の暗闇は消え去り、瞬時にして朝になってしまったかのようだ。バス停のすぐ後ろには学校らしき建物が見え、校庭では小学生くらいの子供たちが遊んでいるではないか。
驚愕している私の横をさっきの老婆が音も立てずに通り過ぎていく。運転手に軽く会釈をし、バスを降りると、わき目も振らずまっすぐに学校の校庭に向かっていく。それに気が付いた子供たちが老婆に走り寄って来て、老婆はうれしそうに両手を上げてその輪に加わった。
その直後、けたたましいサイレンの音が私の耳をつんざいた。
「きゃっ、な、なんなの」
私は小さく悲鳴を上げて、座席へ崩れ落ちた。サイレンはなおも大音量で鳴り続けている、まるでこれから起こるとても恐ろしいことを報せるかのように、早く逃げろと急かすかのように。
老婆を見送ると、バスは何事もなく出発した。不思議なことにバスが動きだすと外の景色は徐々にまた暗闇へと戻っていく。後ろへ後ろへと遠ざかる里中女学校だけがぼんやりと明るさを留めていた。
サイレンの音が聞こえなくなって、私はやっと動くことができた。いま目の当たりした奇怪な出来事をどう理解したらよいのか分からずに混乱していたが、よろよろとなんとか歩き出して、運転手に話しかけた。
「あのう、このバスは」
「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」
私の呼びかけに、憮然とした返事が返ってきた。少し癪に障ったが、とりあえず、そのまま一番前の席に座り、停車ボタンを押す。が、反応しない。何度も押すが全く反応しない。すぐ後ろの席のボタンを押してみたがこれも反応しない。
「あのう、これ点かないんですけど」
「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」
「だから、点かないのよ。もういいから次のバス停でとま……」
「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」
運転手は私の言葉を遮った。どうあっても停車ボタンが点かないと停まらない気らしい。私は言い争うのも面倒になったので、諦めて席に座った。次に誰かが降りるときに一緒に降りればいい。
ため息をついている私に、通路を挟んで隣の席のスーツ姿の男が話しかけてきた。
「お嬢さん、どこに行きたいんですか」
「え、どこって家に帰りたいんです。バスを間違えたのにあの運転手が停まってくれないんですよ」
「そうですか。ここにいる人たちは皆そうです。帰りたい場所があるからこのバスに乗る。決心がついたら停車ボタンを押せばいい」
そう言うとその男は停車ボタンを押した。
<次停まります。ご乗車ありがとうございました>
感情のない電子音の声が聞こえた。今度は反応したようだ。どうやら次のバス停で降りられそうだ。
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