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さよなら海岸
九歳の誕生日だったと思う。両親は私にチェック柄のスカートとお揃いの柄の靴を買ってくれた。プレゼントの包装を破く前に予想していた物とは違ったけれど、それは嬉しい方の裏切りだった。きっとぬいぐるみとか絵本とか、そんな子供騙しのおもちゃだと思っていたから、本当に嬉しかった。幾重にも枝分かれしていた私の未来が一つに決まったのは、もしかしたらその日かもしれない。
「わたしね、ファッションデザイナーになるの」
初めて自分の言葉で自分の未来を形容した瞬間だった。それからというもの、画用紙はいつも綺麗な洋服の絵でいっぱいだった。ただただ楽しくて嬉しくて、未来が、そこにいる自分が待ち遠しくてしかたがなかった。
私がファッションデザイナーという言葉の意味をちゃんと理解したのはずっと後になってからだった。好きな事を仕事にしよう。そう思った時におぼろげだった夢が徐々に輪郭を持ち始めた。専門学校までは良かった。卒業後、私は現実を知ることになる。私は大勢の中の一人でしかなく、それは限りなく無力であるということだった。夢を支える動機は“好き”であることしかなかった。しかし、好きであるということは夢を実現させる動機には足りないこともある。夢なんて所詮そんなものなのか、もしくは私が追いかけていたものは夢なんて言えるものじゃなかったのか。どちらにしろ私は甘かった。
いくつもの挫折を経験して、私はやれることは全てやってやろうと思った。無力ならば、力を手に入れてやろうと思った。ただがむしゃらにひたすらに、人に言えないようなことだってやってきた。そしていつしか、純粋に好きだという気持ちすら何処かに無くしてしまった。
私は自分を信じて突き進んできたはずだ。でももしかしたら、どこかで道を間違えてしまったのだろうか、もしそうならどこで間違えたのだろうか。幾度となく繰り返してきた自問。答えはいつまで経ってもわからない……。
ガクンッ
知らぬ間にまた眠ってしまっていた私を、慣性の法則は容赦なく揺り起こした。バスがアナウンスもせずに急停車したのだ。
「よし、着いたな」
隣のスーツの男はそう言うとこちらを向いた。
「お嬢さん、俺はここで恋人と別れたんです」
「え、あ、そうですか、私もここで降りなくちゃ」
「ダメです。ここで降りるのは俺だけです」
「で、でも私、乗るバスを間違えて」
そう言いかけて窓の外を見ると、そこには浜辺が広がっていた。薄暗い波打ち際に女性らしき人影がぽつりと見える。私の住む街に浜辺や湖なんてない。
「俺は彼女に嘘をついたんです。けして言ってはいけない言葉を言ったんです」
スーツの男は勝手に話し続ける。
「このバスは過去に戻れるバスなんですよ、さっきのお婆さんを見たでしょう」
「か、過去!?」
「あなたも戻りたい場所があるからこのバスに乗ったはずですよ」
彼は私の反論を聞かずに、そう言い残してバスを降りた。それを見届けると、バスはそのまま海の上を走り出した。外はまた暗闇へと戻っていく、 窓に当たる雨のせいで二人の姿はすぐに見えなくなった。
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