第一章 四つ葉のクローバーを君に

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** あの日の女の子が、目の前に立っていた。今にも声を上げて泣き出しそうな顔をして、摘んだクローバーをぎゅっと握り締めて。 「天使さん、かわいそう」 そんな目で見るな。俺はかわいそうなんかじゃない。 俺は。 俺の今までの人生が他人にとってどんなに酷いものに見えたとしても。父さんと母さんと弟と過ごしたあの時間は大事な宝物で、愛しくて。いつまでもずっと続いてほしくて――。 でも俺のせいで、皆が不幸になって、バラバラになってしまった。できそこないの俺のせいで。俺が悪いせいで。なのに赤の他人は、俺を守ると言いながら両親を責め立てる。傷ついた心を癒したいとか言う。ならどうして俺じゃなくて父さんと母さんを助けてくれなかったんだ。かわいそうなのは俺じゃない、俺に関わった家族みんなだ。あの人たちを否定するな。 どんなに間違った形だったとしても、俺を愛してくれたのは嘘じゃないって信じたいんだ。 「必死に頑張って生きてきた時間を、傷だなんて言うな……!」 それでも自分は一人になるのが怖くて、誰かに守ってもらうことばかり望んだ。家族全員の幸せを願えるいい子でいれば……こんなことにはならなかったはずなのに。 もう二度と手に入らない、元には戻らない。折れてしなびたクローバーを握り締めたまま、光は女の子の代わりに泣いた。 本当に四つ葉のクローバーが魔除けになるのであれば、二度目の家族だけは絶対に壊したくない。自分を愛してくれる勝行を失いたくない。 だからどうしても、あれが欲しかったのだ。自分の力ではどうすることもできない願いは、神さま頼りにしかできないのだから。 …… …… …… 「こうやってティッシュの上に広げて置いて、挟んでから新聞紙で包んで。通常は数日重たい本などを載せておくんですが……早く作りたい時はアイロンを使うのです」 「この上からアイロンかけんの?」 「そうです、低温で焦げ付かないように優しく」 片岡に教わりながら、光は真剣に新聞紙の上からアイロンをかけた。時々中身をのぞき見、少し冷ましてからもう一度かける。 何とか予定通り退院したものの、昨夜熱中症で倒れたばかりの光は大事をとって自宅で休んでいる。幸い週末だったので学校は休み。勝行もリビングで参考書を広げながら二人の様子を見つめていた。空になったマグカップを机に置き、肘をつく。 「いつの間にか仲良くなったんだね、二人」 勝行のその物言いが少し拗ねている気がして、光はわざと意地悪く口角を上げた。 「誰かさんが俺に護衛なんてつけっからだろ」 「そうでもしなかったらちっとも言うこと聞かないガキんちょだったし。しょうがない」 「ガキんちょで悪かったな。んなこと言う奴にコーヒーのおかわりは作ってやらねえ」 「光さん、同じところばかりアイロン当ててたら焦がしますよ」 「おっとと……っあっちい!」 「危ない!」 アイロンを落としそうになった途端、左右から同時に手が伸びてきて、光の身体が不自然に浮いた。部屋にごろんごろんと音を立ててアイロンだけが転がり落ちた。 「ふう……気を付けて」 「よそ見ばっかりしてるから」 ガタイのいい男二人に軽々と持ち上げられた光は、嬉しいやら悔しいやらで微妙な気分だ。 「おい、降ろせっ過保護野郎。早くアイロン拾わねえと家が焦げるだろうが!」 「コーヒーブレイクでしたら、私が代わりにアイロンを当てておきますので」 いつまでも光の身体を離さない勝行に対し、片岡がさっとアイロンを拾い上げた。ついでに光のやっていたプレス作業の続きに着手する。 察しのいい部下に気を遣われた勝行は、腰から引き寄せたまま光の耳元でゆっくり囁いた。 「ねえ光。コーヒーおかわり、欲しい」 「淹れてやらねえってさっき言っただろ」 「美味しかったから、もう一杯」 「全然聞いてねえなてめえ。……つか耳元に息吹きかけてくんな、こそばいっ」 「……ふふっ。お前ここらへん、ほんと弱いね? かーわいい」 「うっせえな!」 逃げるように勝行の腕からすり抜けると、光は真っ赤に染まった耳を両手で隠して「コーヒーいる奴は手を挙げろ!」と叫んだ。素直にはーい、と片手を挙げる男が二人。 「片岡のおっさんって何が好きなの。うち、今んとこブルーマウンテンブレンドとキリマンジャロとモカがあるぞ」 「私は何でも好きです。勝行さんと同じもので」 「じゃあ片岡さんもさっきと同じのをぜひ。美味しいですよ、コンビニのとは全然違いますから」 「おお、それは楽しみですね」 「……スーパーで買った安売りのブルマンにちょっとだけモカ足しただけなのに、そんなに絶賛するほどのもんか?」 「光が淹れてくれるだけで美味しさ倍増だから」 「はいはい、そーゆータラシ発言は女子にだけやってろ」 光は二人に背を向け台所に潜り込むと、コーヒーメーカーや豆の追加を準備し始めた。それを愛おしそうに目で追いながら、勝行はふとした疑問を投げつけた。 「ところで何を作ってるんですか、二人して」 「押し花です」 「……へえ?」 「せっかく摘んだ大切な花が枯れてしまっては大変ですから」 「花を摘んでたんだ。もしかして昨日のバカ騒ぎはそれが原因? どんなのか見せて」 「ダメだ! 完成するまで秘密だからな、絶対勝行に見せんなよおっさん!」 「片岡さん……主の俺に隠し事するんだ……?」 「ええっそんなつもりじゃ……ご勘弁くださいよ勝行さん。光さんも!」 片岡は困ったようにこちらを何度も見るが、光は頑なに拒否の姿勢を見せた。 まだ勝行には見せられないし聞かせられない。 朝、しなびてひからびた四つ葉を掌の中で見つけた時号泣してしまったこと。押し花にすれば綺麗に永久保存できますと片岡に教えてもらったこととか。どうせなら受験のお守りにしてあげようと言って、手芸道具もこっそり買ってきてもらったことも。 そしてどうして、あの夜四つ葉を探しに行ったのかも。 (いつか……いつか、話せる時が来たら、ちゃんと話すから) 今はただ、こんな一瞬のほの甘い幸せを忘れてしまわないように、大切に閉じ込めておきたい。ゆっくり穏やかに流れていくこの何気ない日常の時間や、勝行の隣で過ごせる時間を当たり前だと奢らないように。自分への戒めも兼ねて。 光はまた勝行に秘密を作ってしまったなあと苦笑しながら、コーヒーミルのスイッチを「ON」にした。 豆を粉砕する轟音が家中に響き渡る。それはいつまでも光の心にくすぶる迷いを一緒に砕き散らせてくれる気がした。
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