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壁時計の秒針が動く音と、休憩時間の喧騒が遠くからうっすら聴こえてくる。点灯していない昼間の蛍光灯が揺らいで見えた。
脱力してしばらく意識朦朧としているうちに晴樹はいなくなっていた。入れ替わりで様子見に来た保険医と片岡には、腹が痛いそうだと説明してくれていた。当然、腹は痛くないし、やらかした記憶も消えてなくなりはしない。
(ああくそ……また……流されてしまった……)
けれど晴樹は行為に耽る自分を何一つ咎めなかったし、卑下することもなかった。それどころか出すもの出してしまった時、「大変よくできました」と小学生を褒めるような仕草で頭を何度も撫で、また優しいキスをしてくれた。これでおしまいの合図のような、名残惜しい時間だった。あんな醜態を晒したというのに、それをどうでもいいやと思えるほどの安心感が不思議で仕方ない。
(クソニートで保の彼氏のくせに……。ああそっか、保はきっとああいうとこが好きなんだ。わからなくもないな……)
あんな風にずっと優しく寄り添ってもらえるセックスなんて知らない。けれどあれは晴樹と保の世界だ。もし誰かと恋人同士になれたら、あんな風に愛してもらえるのだろうか。だとしたら、きっと自分はその人を好きになりすぎて深みに嵌るのが目に見える。
そして、そんな風に甘やかしてもらいたい相手がもう決まっていることも明白だった。
(俺……やっぱ勝行のこと……)
こんな形で知りたくはなかった。今更気づくなんてダサくて、苦笑いしか出てこない。
それでもどうしようもないほど勝行の声が聴きたくなった。ポケットからイヤホンを取り出し、スマホに繋いで必死に曲を探した。WINGSの最新曲。まだCDにはならないけれど、仮音源だけは録った『未来予想図』のアカペラが入っている。それをエンドレスリピートで再生すると、光は目を閉じた。
そうだ。まずは和泉リンに言わなければ。——好きな人が、できたのだと。
まるで夢心地のような時間。勝行の歌声に包まれて眠っていたら、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。目覚めた光は、まだ自分が保健室にいることに気づいた。溜まっていた物理的なストレスも、心理的な悩みも少し晴れたおかげだろうか。昼食もとらずにひたすら寝ていたようだ。昼休みの間、勝行がどうしていたのか少し気になる。
(でも外が暗いから放課後……かな。勝行、まだかな。秋になったから、陽が落ちるの早くなった?)
ふと廊下から聞き覚えのある声が聴こえた気がした。誰かと話しているようだ。光は息をひそめるようにベッドから降りて、保健室の扉に近づいた。
「君さあ。そうやって光くんを愛してあげるふりして縛り付けるくせに、あの子が泣いてることには気づいてないよね」
「どういうことですか」
「今の勝行くんは、あの子を自分の所有物としてしか見てないねって話。そんなのは愛って言わないよ。君の錯覚だ」
「……そんなことはありませんし。貴方に言われる筋合いもないです」
「そう? うかうかしてたらそのうち別の男に寝盗られちゃうよ」
「――そうならないために、あなたはマネージャーと偽って光の護衛をしているのでは?」
「あれ、知ってるんだ。じゃあ僕が光くんと今までどれぐらい交流を深めていたかも知っているよね? 身体中に色々仕込んでるくらいだし」
「……」
「わっかりやすい所有権の印も。ああいうのつける男って、ほんとみっともないぐらい執着心強くて病んでる」
一体何の話をしているのだろうか。ぼそぼそと話しているせいではっきりとは聞き取れない。
けれどそれが晴樹と勝行で、保健室の手前で立ち話をしているのはわかる。晴樹の挑発めいた口調に乗って、勝行の声はだんだん低くなっていく。
(どうしよう……あいつ、俺のこと言わないだろうな……?)
出ていくべきか、否か。悶々としているうちに、勝行の方が畳みかけるように早口で反論している。
「何を勘違いされているのかわかりませんが。俺たちは兄弟です。村上先生と保さんのような肉体関係ではありません。茶化すのはやめて頂けますか。俺たちはそんな俗物的な関係じゃない。だいたいこんな場所で話す内容じゃないですよね」
「大丈夫だよ、今はわざと人払いしてるから、そう簡単には誰も来ない。素直に言えばいいのに」
「そもそも貴方は表向き教師で、恋人もいらっしゃるじゃないですか。二股かけて教え子に手を出すなんて非道理なこと、どうかしている」
「別に僕が直接手を出すとは言ってないさ。ただ、君の味方にはならない。僕は光くんの味方だし、あの子が君の傍にいて苦しそうな顔をしているのは見ていられないから忠告しているだけだよ」
「途中から首突っ込んできただけの護衛に、俺たちの何がわかるっていうんですか……!」
(……あ……あいつ……っ)
怒りを隠せない低音ボイス。光は嫌な予感がして、咄嗟に保健室を飛び出した。
「勝行……っ」
目の前で晴樹の襟元を掴んで今にも殴りかかりそうになっている勝行を見つけた。もしこんなところでキレて暴力沙汰でも起こしたら、今の受験勉強が全部無駄になる。光は出せる限りの大声を出した。
「おっせえよ! もう夜じゃねえか、勝行!」
はっとして振り返る悲壮な顔の勝行と、特に驚きもせず「光くんやっと起きたの、おはよう」と手を振る晴樹。あまりに対照的な二人の間の緊張を強引にぶった切る。
「もう帰ろうぜ。腹減った」
「お……お前、腹壊してたって聞いたけど。もう大丈夫なのか」
「大丈夫。あーくそ、カレー食いたい。肉買って帰ろう」
半分棒読みのようなセリフだったが、勝行にはなんとかバレずに誤魔化せた気がする。だが晴樹にはバレバレだったようで、勝行の後ろでニヤニヤしているのが見えた。さっきは甘くて優しい大人の男だと思っていたのに、今はすっかりいつもの食えないクズ教師の顔だ。
それをギロリと睨みつけ、めいっぱい威嚇しながら光は勝行の手を取り、なるべく急いで晴樹から逃げた。あの男の傍にいてはだめだ。本能がそう語っているような気がして。
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