第二章 明けない曇り空

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第二章 明けない曇り空

山積みの法律文献が、高校数学の参考書を踏みつけて隠していた。それを見つけて下から引っこ抜いたら、雪崩が起きて足元に分厚いソフトカバー本の山が生まれた。 崩壊後の惨状。冷ややかに見つめ、何一つ片づけないまま、相羽勝行は実家の自室を後にした。 ** まだ光は入院中で、復活の目途も経っていない頃のこと。 「相羽、あとで進路指導室に来なさい」 一学期になってから何度目の呼び出しだろう。もう忘れてしまった。勝行はクリアな中音ボイスで「はい」と簡潔に回答し、授業終わりの合図に合わせて頭を下げた。 「姫さあ、今西と一緒にいない代わりに、先生とデートしてる日多くない?」 「あのエロ親父教師、お前に淫行働いてねえか」 淡々と荷物を片付ける勝行の元には、以前放課後をともに過ごしたメンバーが自然と集まってくる。 「そうだなあ……俺もそろそろ飽きたな」 「えっ、マジでエンコーしてんの」 「そんなの、あるわけないだろ。進路の話に飽きたって言ったんだ」 「お前、指定校推薦希望だろ。学年一位はよりどりみどりで、好きなとこ行けるんじゃないのか?」 「いいや……選びたい放題だったらどんなに気楽か」 今日も自主練あがりに一緒に帰ろうぜと誘われ、教室でうまく出会えたらねと軽く断っておく。勝行はスクールバッグを持ち上げ、スマホの着信通知を確認しながら進路指導室に向かった。 春の進路希望調査に第一志望校名を書いた勝行は、学校側と平行線を辿る話し合いを続けていた。 担任は第一志望だけでなく複数受けて滑り止めを用意するか、推薦枠のある学校にしないかと主張する。志望校は自己分析上、成績的には難しくない偏差値の大学だし、自力で一般入試に挑むつもりなのだが――。 (先生もしつこいよな。俺を欲しがってる大学があるって言うけど、単に学校側の体面保ちたいだけだろ。もういい加減あきらめてくれないかな……) 学年一位などという称号は、勉強を真面目に続けてきた結果偶然ついてきただけの順列だ。それなりの優等生枠に入り、内申点を稼げたらいいと思っていた勝行にとっては、微妙に面倒な重荷だった。 この学校は芸能人やスポーツ選手のOBが多い。それゆえ、裏のコネクションなしに進学することは推奨しない傾向があるらしい。 元より光と一緒に通いながらバンド活動するためだけに選んだ高校だ。ここから難関国立大学に進学したいと希望する方が明らか奇特だし、実際に進学できたOBは数少ない。勝行はそんな部類のひとりだ。 「失礼します」 からりと進路指導室の扉を開いた途端、勝行は思わず入り口で硬直してしまった。目の前には進路指導の主任教員と担任、そしてもう一人。 「なんで……」 「ああ、来たね。どうしても夏休み前の三者面談の日取りが難しいからと、さっきお父様がいらっしゃってね」 「久しぶりだな勝行、元気にやってるか」 ガハハと笑い、教員と和やかに茶を囲んでいたのは実父の相羽修行(あいわのぶゆき)だった。 「急に言ってすみませんねえ」 「いえいえ、相羽さんがお忙しいのはよく存じてますので」 「息子とも数か月ぶりに会うんですわ」 「しっかりした息子さんですもんね。我々も学校生活では彼によく助けてもらってます」 つまり進路希望を決める最後の三者面談を、今ここで行うということか。察した勝行は、お疲れ様ですと小声で言いながら修行の隣に座った。 (父にはまだ……何も言ってなかったのに) 心なしか、心拍数が不自然に早まっていく気がする。そんな勝行の緊張を知ってか知らずか、担任は三学年の始まりに出した進路希望調査票を探し出し、剥き出しで机上に置いた。 「相羽……勝行くんの進路希望調査なんですが、最終はこんな感じで出ています。保護者欄のサインはご多忙でまだ頂いてなかったので、今日このあと頂けると嬉しいのですが」 「はいはい。うちの家系は代々受験先が決まっているので、見なくても――うん? これは本当に勝行の進路希望ですか?」 紙をじとり舐め回すように見つめる修行の声色が険しくなった。 「どういうことだ、勝行」 それは稀に見る、父親の仕事モードの表情だった。 「T大文科一類が第一希望のはずだが」 「……」 すぐには返答できなかった。膝の上でぎゅっと握り締めた手のひらは、じっとり汗ばんでいる。 「C大芸術専門学……? 聞いたこともない名前だ。こんな三流のところに相羽家の跡取りが進学するなんて聞いたら親戚筋がなんと言うか」 「失礼ながらお父さん、これでもこの学校は偏差値60以上の国立大です。三流なんかじゃないし、俺は法律よりも自分の身につく教養を学びたくて」 「身につく教養? そもそも音楽活動を許可したのは学業をおろそかにしないことが大前提だったはずだが。相羽家の嫡出子としての自覚はどこに投げ捨ててきたんだ? ライブハウスのステージ裏か?」 咄嗟の感情的な反論は、父親の反感を買ってしまったようだ。冷静に、なおかつ冷淡に尋ねる修行の怒りは声からじりじりと伝わってくる。 (しまった……まだ父を論破できるほどの策がない) 相羽家の頑固なしきたりを崩すためにはもう少し時間が欲しかった。この進路希望を父に反対されるのは目に見えてわかっていたことだ。確実に決めるための計画を練るには、あまりに色んなことがありすぎて時間が足りなさ過ぎた。 「お父さんの仰る通り、T大は勝行くんなら間違いなく狙えると思います。C大もT大に劣らずレベルの高い大学ですが、あいにく受験日程が被ってましてね、本人の希望はどうやら法学部ではないようで……あと我々としては、もし受験で万が一のことがあれば大変勿体ないので、推薦の枠も用意しておりまして」 「滑り止めに推薦枠なんて使ったら違反ですよ先生」 修行はあっさり教員サイドの計画を棄却すると、紙を裏返してパンと机に叩きつけ、威圧的に腕を組んだ。 「うちは代々T大の法学部以外、進路を認めない家系なんです。私も、長男もそうでした。勝行だけ特別な逃げ道を用意する予定はありません。この放蕩がんこ息子を説得するまでは、判も押せそうにないですな」
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