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何気なく街を歩いていると、九十九パーセントは何事もなく終わるのだが、一パーセントの確率でトラブルに巻き込まれる。ハトのフンが服に落ちたり、乗ろうとした電車が人身事故で止まったり、ポケットに入れておいたはずのスマートフォンがスルッと落ちてしまって、画面にヒビが入ったり。
しかし僕の場合、そのときは素直に「今日は運がないのだ」と受け止めて、前向きに気持ちを切り替えるようにしている。お母さんから「クヨクヨしているくらいなら次を見据えよ」と言い伝えられている僕にとっては、多少の不幸が降り注ぎ、一時期は感傷的になりつつも、すぐに立て直してしまう力を身につけてきたのだ。つまり、僕は不幸を不幸と捉える習慣がどこかへ飛び去っていたのだ。
午前十時。本来なら今日は、近所に住むキクミちゃんの家へ遊びに行く約束をしていた。だけどあろうことか、今の僕はベンチに腰をかけて困り果てている。無視すればよかったのかもしれない。日本人お得意のスルーを使って、どうにか回避すれば、僕はここで頭を抱える必要などこれっぽっちも存在しなかったのだろう。ただ、お人好しで善良な性格を捨てきれない僕は、キクミちゃんに「ごめんなさい」と敬語で遊びに行けないことを伝え、お母さんの格言も忘れてクヨクヨしている。どうして僕がこんな目に遭わないといけないのか、まるで脳内は理解するつもりがないようで、先ほどから「残念!」と叫び続けている。
「お兄さん。私のお母さんはいったいどこにいるのでしょうか?」
やはり警察へ突き出した方がいいのだろうか。事情は分からないが、きっとこの人は抜け出せない迷路に迷い込んでしまっているに違いない。僕みたいな中途半端な年齢ではない、立派な大人に託す方が鮮明だろう。
「あの、一緒に警察へ行きましょう」
しかし、その人は大きな動作で頑なに首を横に振った。
「警察は怖いんです。警察は私のキクタロウ兄さんを殺しました。警察は警棒で頭を殴って、キクタロウ兄さん血塗れになって死にました」
僕はなんとなく六十年代にあった安保闘争の写真を思い出す。今の交番にいる警察がそこまで過激な人物だとは微塵も思わないが、この人の中ではこびりついたように嫌な記憶が焼きついているのだろう。
「お兄さん、私のお母さんはいったいどこへ行ってしまったんでしょうか?」
その人は言葉を話すことはできている。それに、昔の記憶は覚えているようだ。
「おうちはどこですか?」
「……」
「電話持っていますか?」
「……」
しかし、おそらくこの人、僕に隣で俯いているおじいちゃんは、最近の記憶が吹っ飛んでしまっているようだ。もしかすると、頭の中だけ幼少期に戻ってしまったのかもしれない。
「あなたのお名前はなんですか?」
「私は、キクゾウです。私の家にはキクがつく人が多いです。だから、私の名前にもキクが入っています」
キクゾウさんが余計な情報まで教えてくれる。しかし、僕はそれを知っても、キクゾウさんのお母さんが見つかることはないだろう。
「キクゾウさんですか。えっと、あなたのお母さんは、多分もう……」
「お兄さん、私のお母さんを一緒に探してください。お願いします」
こんなに年を老いた方が深々と頭を下げてくる現象に、僕は少し目眩がする。見た感じ、このおじいちゃんは八十歳を超えていそうだ。お母さんなんて、きっととっくの昔に亡くなってしまっているだろう。
キクゾウさんは、見つかるはずのない『探し物』を僕に求めている。寂しそうな眼で、ずっと僕を見つめている。
ため息を二、三発曇天に向けて吐き出し、お母さんから受け継いだ信念にしたがって、僕はこの予期せぬ不幸を受け入れることにした。
「分かりました。一緒に探しましょう」
僕と迷子のおじいちゃんは、宝のない宝探しをすることにした。
「あの、あなたのお母さんの特徴って分かりますか?」
「特徴ですか?」
僕の隣でゆったりと歩くキクゾウさんは首を傾げる。
「はい。もしわかりやすい特徴があったら、その方が探しやすいので」
「ええと、そうですね」
キクゾウさんは金縁のメガネを押さえながら、ひとしきり考えている。そして捻り出した答えが、「水玉のスカートです」だった。
「水玉のスカートですか?」
「はい。私のお母さんは、赤色の生地に白い粒々のスカートを履いていました。すごく綺麗でした」
今どきそんなスカートを履いている人がいたら、かえって目立って探しやすいことだろう。ただ、今はそんなスカートを履く時代ではない。僕はもう少し踏み込んでみる。
「他に何かありますか?」
「えーと、そうですね。私のお母さんは、よく握り飯を作ってくれました。それがとても美味しかったです」
「握り飯ですか?」
「はい!」
キクゾウさんは満面の笑みで僕に応える。握り飯。
「あの、お母さんの外見の特徴ってありませんか? 例えば唇が厚いとか、目がパッチリしているとか」
「うーん。えーとですね」
キクゾウさんは微かな歯ブラシ粉を力強く押して絞り出すように、苦悩しながら薄くなった記憶を思い出そうとしているように見える。この年齢のお母さんだ。きっとかなり前に亡くなっているに違いない。言葉として上手く出てこない記憶など山のようにあるのだろう。
「ああ、お手玉、お手玉で遊んでくれました。お母さんはお手玉がとても上手でした」
お手玉。これ以上は進展することがなさそうだ。僕は質問の趣旨を変える。
「えっと、お母さんの名前って覚えていますか?」
「はい。名前は、キクです」
「キクさんですか?」
「はい。私のお母さんは菊の花が大好きでした。家にはキクの絵が飾ってありました」
水玉模様のスカートを履いて、美味しい握り飯を作ってくれる、お手玉が上手なキクさん。
「あの、それ以外は何か覚えていますか?」
しかし、キクゾウさんは空っぽになってしまったのか、それ以上の言葉が出てこなかった。
「分かりました。えっと、とりあえずその辺を探してみましょうか?」
「はい。一緒に探してくれるんですね。ありがとうございます、お兄さん」
先ほどからキクゾウさんは僕のことを「お兄さん」と呼んでくる。もしかすると、この人は本当に子供に戻ってしまったのかもしれない。ヨボヨボになってしまった顔も、ふらつく足も、杖をつく手のことも忘れて、自分は幼い子供でお母さんとはぐれて迷子になってしまったと勘違いをしているのかもしれない。
すると、キクゾウさんはいきなり足を止め、僕の顔をまじまじと見てきた。
「ああ、思い出しました。お兄さんは、いつも私の家に遊びに来てくれた花屋さんですよね?」
「え?」
僕は花の香りなど嗅ぎ分けることもできないが、目の前にあるその瞳はどこか懐かしさを帯びている。
「えっと、僕は花屋さんじゃないですよ」
すると、キクゾウさんは少し驚き、そして残念そうな表情で僕を見る。
「そうですか。てっきりキクタロウ兄さんと一緒に遊んでいた花屋さんだと思っていましたが、人違いだったんですね。すみません」
「い、いえ」
それでもキクゾウさんは特別落ち込むこともなく、今の今までのやりとりを忘れてしまったように平然と僕に話しかけてくる。
「あそこに咲く花、キレイですね」
キクゾウさんは菊の花に近づいていく。僕は少し離れたところで奇妙なおじいちゃんについて考える。
キクゾウさんの頭の中にある認知能力がどれだけ正常に作動しているのかは分からなかったが、きっと回想された記憶が僕の姿とダブってしまったのだろう。ただ、僕には真実すら曖昧にしか映し出されていないから、だんだんと空想の世界にいる感覚になった。本当は、キクゾウなんてこの世には存在しないのかもしれない。これは目の前にいるおじいちゃんが生み出している『誰か』であり、すなわちこの人のお母さんである、キクさんも存在しないのかもしれない。明確な答えが分からない以上、僕は不可思議なおじいちゃんと一緒に、目に見えない何かを探し続けるのだ。
どうにかして、このおじいちゃんの探し物を見つけないと。
「すみません」
花を見終えたキクゾウさんが僕のところへ戻ってくる。
「私、喉が渇いてしまいました。お兄さん、私に飲み物を買っていただけませんでしょうか」
「ええ、いいですけど。お金は持っていないんですか?」
「はい。お金は持っていません」
なら、キクゾウさんはどのように生活をしているのだろうか。僕はますます疑問が深まっていった。
「あそこに自動販売機がありますから、好きなものを買ってください」
「ああ。ありがとうございます」
僕らは薄汚れた自動販売機に近づき、僕が千円札を入れると、キクゾウさんは緑茶を押した。ガタンと粗雑な音がして、僕がそれを取ってあげる。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。恩に切ります」
キクゾウさんが深々とお礼をするので、僕は軽く手を振る。
「いいですよ。気にしないでください」
僕は僕でスポーツドリンクを買い、出てくるなり糖分を体内に注入する。
「美味しいです」
キクゾウさんはふうっと息をつき、「満足しました。ありがとうございます」と再び僕に頭を下げる。
「それは良かったです」
「お母さんが見つかったら、必ずお金を返しますから」
いるはずのない存在を、キクゾウさんは真剣に探し続けている。
「そうですね。お母さん、見つかるといいですね」
僕はあえてそんな返事をして、キクゾウさんの希望を壊すことを避けた。
僕のスマートフォンにどこからかメールが来て、ブーっと振動する。僕は画面をチラリと見て、すでに十一時を過ぎていることを知る。キクゾウさんは相変わらず周りをウロウロと見渡しながら、時折綺麗な花を見つけると立ち止まり、少しの間観察をしている。あまり疲れている様子もない。
「キクゾウさん、お母さんは見つかりそうですか?」
僕が訊くと、キクゾウさんは振り返って、
「お母さん、見つかりません」
と答える。
「じゃあ、もう少し先を歩いてみましょうか」
「ありがとうございます」
キクゾウさんはまた懇切丁寧な挨拶をする。きっと礼儀正しい人なのだろう。
「そうだ、あの住宅街の辺りまで歩いてみましょうか」
「はい。分かりました」
僕とキクゾウさんは、一軒屋がひしめく住宅街の脇の道をゆっくり歩いていた。この辺りは僕も時々来ることがあった。閑静な住宅街の中で、土曜日で学校が休みだからか、私服の小学生たちが自転車を飛ばして僕たちとすれ違う。僕も少し前まではあの子たちのように無邪気に遊んでいたことを思い出す。キクゾウさんは、きっとあの子供たちのような感覚で探し物をしているのだろうと僕は思う。
「あれ、お母さんだ!」
そしてそれは突然の発言だった。キクゾウさんが前方からこちらに向かってくる女性を指差して、
「間違いありません、私のお母さんです」
と確信を含めて言ったのだ。
「え、あの人ですか?」
僕には随分と若い女性に見える。それに、赤地で水玉模様の鞄を持ったその人は、僕が何度も見たことがある、馴染み深い顔だった。
「あれ、優希くんじゃない?」
その人が僕らに気がついたようで、走って近づいてくる。
「キクミちゃん」
僕は思わずその人の名を呟いた。
「お母さん!」
キクゾウさんも、やっと探し物を見つけることができたのか、キクミちゃんを見て駆け寄っていく。
「え、おじいちゃんがなんで優希くんと一緒にいるの?」
「おじいちゃん?」
二人の顔を交互に見ると、たしかに目元が似ている気がする。それに、僕は先ほどキクゾウさんが言っていた言葉を思い出す。
『私の家にはキクがつく人が多いです』
言われてみれば、キクミちゃんも名前にしっかり「キク」が入っているではないか。
「なるほど」
僕は勝手に一人で納得してしまう。
「お母さん、寂しかったよ」
「おじいちゃん、私はお母さんじゃないよ、キクミだよ」
しかし、キクゾウさんは聞く耳を持たず、「お母さん、寂しかったよ」とキクミちゃんに抱きつく。
「困ったわ。これはお母さん呼ばないとだめだ」
キクミちゃんはキクゾウさんをどかして、すぐに電話で母親を呼び出した。ほどなくしてキクミちゃんのお母さんがやってきて、キクゾウさんを連れて帰ろうとする。
「うちのお父さんが大変失礼いたしました。なんと詫びたらいいのか」
キクミちゃんのお母さんが、キクゾウさんに似て僕に深々と頭を下げてくる。
「いや、僕は大丈夫ですから」
僕もなんだか恐縮してしまって、腰が低くなる。
「朝から散歩に行ったきり帰ってこないから、そろそろお昼にもなるし、探しに行こうかなって思っていたんです。でも、もうそろそろ目を離したらダメかもしれないわね。お父さん、優希くんにありがとうございましたってお礼言ってちょうだい」
キクミちゃんのお母さんにそそのかされたキクゾウさんが、僕の全身の姿をまじまじと見る。
「お花屋さんのお兄さん、ありがとうございました。また、キレイな菊の花をキクタロウ兄さんにあげてください」
「何を言っているのお父さん。本当にすみませんね」
ほら、行きますよ。そう言って、キクミちゃんのお母さんがキクゾウさんを近くの家まで連れて帰った。僕はその背中姿を見て、なんだか悲しい気持ちになった。
「ごめんね優希くん。おじいちゃん、最近ちょっと認知症っぽいところがあって。今日も朝から徘徊していたみたいで、私も心配して探していたところだったの」
「ああ、そうだったんだ」
「それがまさか、優希くんと一緒にいると思わなかったよ。それで、今日は行けないって連絡してきたんだね。ごめんね、本当に迷惑をかけちゃって」
「僕のことは気にしなくていいよ。それよりも、キクゾウさんが無事に家に帰ることができたからよかったよ」
「あの、一つ気になるんだけど、優希くんは私のおじいちゃんとどこで出会ったの?」
「ああ。キクゾウさんは、僕の家の近くにある公園のベンチで座っていたんだ。それで、僕が目の前を通り過ぎると、『お母さんを探してください』って急に声をかけられちゃって。なんだか無視できなかったから、色々と話を聞きながら一緒に探してあげていたんだ」
「お母さんって、おじいちゃんのお母さんを?」
キクミちゃんは驚いたように聞き返す。それは僕も同じ気持ちだった。
「うん。そうしたらキクミちゃんが目の前から来たのを見て、キクゾウさんがキクミちゃんのことを『お母さん』と勘違いしたみたいなんだ」
僕が事の顛末を話し終えると、「なるほどねえ」とキクミは納得した様子で頷いた。
「でも、おじいちゃんのお母さんは、おじいちゃんが小さい頃に病気で亡くなったって聞いたことがあるの。だから、おじいちゃんは自分の母親の姿を覚えていないって、前に話していた気がする」
「そうだったんだ」
なんとなく、心の中がソワソワしてしまう。キクゾウさんが必死に探していたお母さんは、キクゾウさんの記憶にも微かにしか残っていなかったのだ。だから僕が外見に関して質問した際にも、特徴を説明できなかったのだろう。
「でも、なんとなく覚えていることもあるんだって」
「覚えていること?」
秋のきらびやかな日差しが些細な日常を照らす中で、キクミは嬉しそうに「お母さんの作る握り飯が美味しかったんだって」と言った。
三ヶ月後。大寒のが過ぎた頃のとある日にキクミちゃんから連絡があり、僕は先日キクゾウさんが亡くなったことを知った。すでに葬式などは身内で済ませたらしく、キクミちゃんはキクゾウさんの死を受け入れているという。
「おじいちゃん、だんだん動けなくなっちゃって。最後は私たちの名前も覚えていなかったの。でもね」
そう展開させて、キクミちゃんは少し声のトーンを上げる。
「優希くんのことは覚えていたんだ。お花屋さんって言っていたけど、美味しいお茶を買ってくれたんだって、時々笑って話していたわ」
キクゾウさんは僕が買ってあげたお茶の記憶は、どうしてか脳内に留めてあったらしい。
「そう、なんだ」
言葉にできない不思議な気持ちが僕を襲う。胸の中が急に熱くなって、ポカポカしてくる。
「だから優希くんには、改めてお礼を言いたいなって思って。おじいちゃん、ほとんど記憶も無くなっちゃったけど、亡くなるまでずっと楽しそうだったんだ」
僕は一度きりしか会ったことのないキクゾウさんの、子供みたいに輝いていた眼を思い出した。最期の迷子になったキクゾウさんは、きっと探し物であったお母さんのことを天国で見つけることができただろう。少しでも誰かの役に立てたのなら、それは僕にとって本望だった。
「あのさ、これからキクミちゃんの家に行くよ。キクゾウさんに手が合わせたいんだ」
キクミちゃんは「ありがとう。おじいちゃんも喜ぶよ」了承してくれた。
「じゃあ、三十分くらいしたら行くね」
「うん、待ってるね」
電話を切って、僕はキッチンへ向かう。炊飯器の中には、朝に炊いた米が少しだけ残っている。僕はそれをラップで包んで、握り飯に変える。そして、昔遊んでいたお手玉を鞄にしまって家を出る。
キクゾウさんと出会った頃とは比べものにならない、しんしんとした寒さがこの街を包んでいる。僕は近所にあるスーパーで御供物に加えて、白い菊の花束とお茶を購入する。まるでお花屋さんになった気分で、僕は空の上にいるキクゾウさんと再会する。
キクゾウさん、天国でお母さんと楽しく暮らせているかな。
モクモクと膨らむ白い雲のずっとずっと上の世界は見えないが、そこが幸に満ちていると信じて、僕は前へ進む。
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