水平線に会いに行く

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 どこだったっけな。  以前、彼に聞いたはずの曖昧な記憶をたどりながら、柱に蔦がぐるぐると巻かれているような寂れた無人駅に降り立った。交通系のICカードはもちろん切符さえ売っていない。だって無人駅だから。  改札という改札もなくて、少し細くなった通路を無造作に通りすぎるのみ。手に持っていた切符が汗ばんで行き場を失うが、改札らしき場所を通りすぎたところに切符回収ボックスなるものがあった。  何なのそれ。  そう思いながら切符をボックスに入れることなく、ロングスカートのポケットに放り込んだ。たぶん切符を入れたことを忘れてそのまま洗濯しちゃうんだろうな。  駅を出ると急斜面の坂の途中だったので、なんて場所に駅を作るんだろう、そりゃ無人駅にもなるわ、と嘲笑を浮かべる。何気なく坂の上を見ると、神社の鳥居らしきものが佇んでいた。どんな神様が祀られているか興味があったがどうせ神様なんか信じない。  坂の下に目をやると水平線が悠然と広がって見えた。空と海の色はほとんど一緒で目を凝らさないと判断がつかない。あの境目に飛び込んだら私も見えなくなるのだろうか。  とりあえず海に向かわなければならないので、坂を歩いて下りることにした。 「坂を下りてるとね、水平線が見えるんだ」 「水平線ねぇ」 「空を飛んでるような感覚になる」  彼はうれしそうに声をはずませる。 「田舎で何もないけど、海だけは自慢。小さい頃から釣りか、泳ぐかどっちかしかしたことない」 「ふーん、私は海は嫌いだな。底が見えなくて怖い」 「それは怖い、確かに。だから潜るの」 「スキューバ?」 「まさか。水中メガネだけつけて素潜り」  私は音もなく眉をひそめた。 「耳栓つけてもいいかもね」 「耳栓必要なほど?」  耳栓と聞いてさらに怖くなる。耳が潰れるほど圧力がかかるのだろうか。 「そんな深いところじゃないよ。防波堤の手前だから」 「防波堤も遠いよ。怖い」 「潜ると海藻とか貝とか魚とか全部見えるから怖くない。見えないから怖いんだ」 「そうかな。怖いよ。鮫が見えたら死んじゃいそう」 「鮫はそんな浅い所にいないから」 「基本的にはでしょう?万が一があるし」  私は子どものころからずっと、大人になっても変わることなく怖がりだった。 「まあ、泳げとは言わないから一度遊びに来るといいよ」 「まあ、気が向いたら」  別に彼の故郷に興味がないわけではなかった。彼は行動派だったので、私が行かないと言っても彼がその気になればいつでも行けると思っていた。嫌がる私が本当は心底嫌がっているわけではないとわかっているので、どこへでも連れ出してくれる。そんな彼だから好きになった。  だが結局、二人で並んでその海を見ることはなかった。  坂を下りきると商店街?街道というのだろうか。海に沿って民家や商店が軒を連ねていた。平日の昼間だったせいか、賑やかさはなくしんと静まり返っていた。  海は目の前に見えていたが、せっかく来たので街道に沿って歩いてみることにした。彼の家はこの街道沿いにあるのだろうか。いや、違うか。確か坂を登ってもっとずっと先だと言っていたのを急に思い出した。  通夜にも葬式にも出席していないので、彼に最期の挨拶をすることはできなかった。できなかった、という言い方は正しくないのかもしれない。最後の挨拶をしたくなかった、という方がよっぽどしっくりくる。  共通の知人に私の代わりをお願いして、私は彼の通夜の日も葬式の日も仕事をしていた、ただ黙々と。  何事もなく街道の終わりに到達してしまったので大人しく海を目指した。家と公営アパートらしき建物の間にある小道をちょっと進んだだけで目の前に港が広がる。少し汚ならしい年季の入った小さな漁船が数え切れないくらい停まっていた。早朝の漁を終えてつかの間の休息を海の上で取っている船たちは、波に揺れて絶え間なく上下運動を繰り返し、息をしながら眠っているようだった。  船たちを横目に通りすぎると海辺に下りる小汚い小さな階段を見つけた。子どもが見つけたら真っ先に下りていきそうなやや急で茶色く色褪せた階段。彼もこの階段を下りたことがあるのかもしれない。  下を眺めると、岸には小石よりは大きいが、岩と呼ぶには小さすぎる石で埋め尽くされ、流れ着いたのか不法投棄なのか、ペットボトルやお菓子の紙くずが所々に顔を出していた。  階段をゆっくり下りると、見たことのないゲジゲジみたいな虫とか、ゴキブリみたいな虫とかが一斉に散らばって背筋がゾッとした。それでも海水を触るまでは帰れないと必死になって海に向かって歩く。スニーカーを履いていたが足裏がゴツゴツと刺激され、心地よく私を海へと誘ってくれた。  彼はこの海で死んだ。愚かなことに台風の去った後の高波が押し寄せる中、友人らが止めるのも聞かず飛び込んだらしい。  誰かがその友人たちのせいだと責めていたが、私にはそうは思えない。だって彼は止められても必ず入るだろうから。縄で手足を縛るくらいしなければ誰にも止められなかったと思う。  私は靴を脱ぎ、海水に両足を浸した。生温くて纏わりつくような気持ち悪さがあった。海藻や海月が貼りついてるみたいに感じたが、いくら自分の足を見ても何もくっついてはいなかった。  少しずつ足を前に進めるといつの間にか膝辺りまで海水が届き、ロングスカートが水中を揺らめいて、海藻みたいに足の周りに纏わりつく。  波に飲まれたのは一瞬だったらしいので、私のことを思い出す余裕はなかったと思う。それともその一瞬で、一瞬でも私のことを思い出してくれただろうか。先に死んでごめんね、と謝ってくれただろうか。  水平線を真っ直ぐ見つめる。私は一体なぜここに来たのだろう。何を探しに来たのだろうか。自分でもわからない。彼との思い出?海?水平線?……骨?  骨か、それもおもしろいな。  私はほんの少しだけ、口の端から笑い声を漏らすとさらに足を前に進めた。海はさらに深くなるが、彼との思い出も、海も、水平線も、骨も、何も見つからなかった。なんにも。 (了)
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