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ダイニングでは、イザベラがしゅんとした様子で、椅子に浅く腰掛けていた。
ヘンリーは彼女の横を通り過ぎ、喉を鳴らしてグラスの水を一杯飲んだ。それから、少し離れたところに立ったまま、悪かった、というように両手をあげた。
「ごめんよ。あんたのせいじゃない。頭に血が上っちまって」
「いいのよ」イザベラは微笑んだ。「オリヴァーは、あなたの了解を得ていなかったんですもの」
「あのくそったれ」
「オリヴァーは、あなたを思って、私をここへ寄こしたのよ」
「大きなお世話だよ」またヘンリーの怒りの泡がふつふつと沸いた。「頼んでもいないのに」
イザベラとの別れから1年経った、今日の昼過ぎ。
『イザベラ』は突然玄関先に現れた。
ヘンリーは、「持ち帰れない」という配送業者に悪態をつき、すぐに電話でオリヴァーに食ってかかり、60過ぎの父親の怒号に気圧されて「父さんを驚かせようと……」とおずおず言った息子の言葉を蹴散らし、「夕方には業者を引き取りに行かせるから」と約束させた。
そして怒りと、呼び戻された哀しみを鎮めるために、図書館でブリタニカ百科事典をAからFまで順に読んだ。AIとautomatonの項目は飛ばして。
彼は、なるべく『イザベラ』と目を合わせないように横を向いたまま言った。
「イザベラとは、40年一緒だった。イザベラによく似たあんたと残りの人生を過ごしたら、ほんとのイザベラとの思い出が薄まっちまう」
思い出、の言葉に反応して、『イザベラ』がメモリをロードし始めた。
「そう。たくさんの思い出……。はじめてのデートはスパイダーマンの映画」「式ではふたりとも大泣き」「オリヴァーの名前はあなたのおじいさまから」「バレンタインのあなたからの贈り物は赤いベルベットの……」
「ストップ!」ヘンリーはまた大声を上げた。「オリヴァーや、周りの奴らから聞いてまとめた『思い出』だろう? 見出しの羅列だよ、それは」
誰かに話すことでもない、メモリチップにはおそらく収まりきらない、見出しからひらひらとぶら下がる、小さな切れ端。
――スパイダーマンの帰り道。おれとイザベラの会話を止めた、カーラジオから流れるcoldplayの「Yellow」。式の翌朝、ホテルのベランダに出て、並んでかいだ海の匂い。ふたりで作った、長い「息子の名前候補リスト」。そして、赤いベルベットを纏ったイザベラが、おれの前で楽し気にくるりと廻る……。
けれど、イザベラとはもう、新しい切れ端をつくれない。
死が悲しいのはそのせいだ、とヘンリーは1年前に知った。
ヘンリーは自分にも『イザベラ』にも言い聞かせるように、言った。
「とにかく、あんたは、おれには、必要ない」
そして、心の中で付け足した。
……あんたは、金属製の亡霊なんだ。
視界の端で、『イザベラ』がうつむくのが見えた。
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