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1.プロローグ――逃走
青年の腕の中で、少女は忙しない足音を聞いていた。
少女はまだ六にも満たない歳でありながら、本能的に理解していた。
コンテナ越しに聞こえる複数の足音――その足音が、二人を狩る死神の足音であるということを。
遠くに楽しげな人の列が見えている。つい数分前までは、彼らもあの群れの中にいたのだ。
定期船の船旅は快適で楽しかった。眩しい地中海の日差しに目を細め、船体が波を割るたびに左右に飛び去っていくトビウオを数える。
だが、それも入港までだった。港に船が入り、埠頭に立つ人物の顔まで判別できる程の距離に近付いた時、ルカは何かを見て顔色を変えた。
足音が近付く。
少女は体に回された青年の腕が小刻みに震えているのを感じた。
意を決し、ルカはコンテナの裏を飛び出した。なるべく足音を殺し、追われないよう無作為に角を曲がる。
少女は荒い吐息に混じる祈りの声を聞いた。
神は――いや、彼が祈ったのは自分と同じ聖女の名前だったと、少女は後で気が付いた――二人を見捨てなかったのだろう。ルカは追っ手の目を躱して、どこか暗い場所へ駆け込んだ。
少女を運ぶ足音が、コンクリートから鉄板へ、そして硬い床を叩くものへ変わる。真っ暗な細い通路をいくらか進み、ルカは並んだ扉の一つを開けた。
「ルチア」
少女をベッドに座らせ、青年が膝をつく。目が暗闇に慣れると、目線を合わせたルカの顔がすぐ目の前にあった。
「ここからは独りだ。絶対にここから出てはいけない。誰かが来たらベッドの下に隠れなさい。例えその人が『僕の代わりに迎えに来た』と言っても、決して信じてはいけないよ」
「……ルカは?」
か細い声で問う。答える声も、震えていた。
「僕は行く。後を追ってきちゃダメだよ。絶対に僕が言ったことを守るんだ。できるね?」
荒くザラついた暗闇の中で、青年の押し殺した呼吸が静寂を破る。
ルチアは小さく頷いた。
「……いい子だ」
ルカが彼女の髪を撫でる。そして、彼は立ち上がった。
扉を閉める直前、彼はもう一度念を押した。
「いいかい、ルチア――絶対に誰も、信じちゃダメだ」
少女は青年の怯えた声を忘れない。
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