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カリカリとペンを走らす音が響く、深夜の船長室。時折そこに計算機を弾く音が混じっては、ペン先をインクに浸す一瞬の間。〈アヒブドゥニア〉号の船長は黙々と書類仕事をこなしている。
新船になり、船全体が近代化されたにも関わらず、この船長室だけは旧船の様相をそのままに引き継いでいた。壁には木の板を打ち付け、調度品もアンティーク家具の一式を選りすぐった。本棚には図録や語学書が。机にはシンプルなオイルランプの他、芸術品としても見事な天球儀が設置されている。航海先で手に入れた稀少な鉱物の標本もあった。
まるで絵画の中の天文学者の研究室を彷彿とさせる、またしても時代に取り残された部屋であった。
彼が目頭を押さえ、老眼鏡の購入を検討し始めた時。廊下の向こうで足音がした。
急速に歩幅を縮めた足音は部屋の前で止まり。
乱暴に扉が開かれ、若き航海士が怒鳴り込んで来た。
「船長!」
怒声が頭蓋に響く。船長は目を細めながら、首だけを彼の方へ回した。
「なんだ、夜中に――」
ミナギは扉を背に仁王立ちし、顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいた。
「出て来てください」
その声音は横柄で有無を言わせない。船長は仕方なく彼に従い、廊下に出ると後ろ手に扉を閉めた。
正直なところ、船長は驚いていた――一切表には出ていなかったが。
若い航海士には多少気難しいところがあり、他の船員と衝突することも少なくない。だが、そういう時ですら、ここまでの怒りを見せることはまずなかったからだ。
事情を問おうとした船長は、瞬時に理解して口を噤む。
ミナギの足元に、眠そうに目を擦るあの少女がいたのだ。
「どういうことですか、これは?」
「……ああ。部屋に返した」
「部屋に返した?」
眼鏡の奥で緑の瞳が筋になる。怒りが炎となって燃え上っていた。
「面倒を見てくださいと、俺言いましたよね?」
「怖ければ部屋に鍵を掛けろと言っておいた。鍵くらい自分で掛けられるはずだ」
「鍵ですか。あなたはそれでいいと思ったのかもしれませんがね、船長……この子はあなたに追い出されてからも、ずっとここにいたんですよ」
ハッと息を呑む。
表情を失っていた青い目が酷い動揺に染まる。
「まさか……」
船長は乾いた唇を湿らせた。
「まさか、ずっと扉の前にいたのか?」
「ええ。部屋の前で横になって寝ていましたよ。あなたに放置されたから」
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