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2.名前で呼ぶ、ということ
リチャードは、フルネームを「リチャード・ロウ」という。
「名前が不明」の人物の仮称として使われることが多い名前の通り、リチャードの本名は本人にもわからない。何だったら年齢さえも「たぶん」がつく。
リチャードが物心ついた時にいたのは、汚臭と死臭がぷんぷんしており、生きることにギラつくか死ぬのを待つかの二択しかないようなスラムだった。その中で、名前がある人間というのは希少だった。
誰も彼もが、名前がなかった。
個人の識別のためのソレがなくても、会話は成り立ったからだ。髪色だったり、瞳の色だったり、男だったり、女だったり、ガキだったり、オッサンだったり。誰かを呼びさすための符号というものは、いくらでもあった。
だから、リチャードは名前を必要としなかったし、師によって「リチャード・ロウ」と名前を渡された時でさえ何とも思わなかった。
そんな人生を送っていたので、リチャードは人の名前を覚えるということが、いっそ笑いたくなるぐらい苦手なのだ。
「りちゃーどは、どうして、名まえをよんでくれないの?」
「淑女は、軽々と騎士に名前を呼ばせないものだからですよ。姫さま」
「りちゃーどは、わたしの、ごえいかん、でしょう?」
「はい。貴女の盾で、貴女の剣です」
「きし、じゃなくて、ごえいかん、でしょう?」
「護衛官という仕事をしている騎士です」
むすっと、お姫さまという肩書に似合わない顔をする少女の名前を、リチャードは思い出せないでいた。
薄紫色の瞳。その色に、花を思い出したのは間違いない。
けれども、その花の名前が思い出せないのだ。
彼女の瞳を初めて見た時、するりと出た花の名前が、今は思い出せない。
「わたのこと、きらい?」
薄紫色の瞳に、水の膜が張られる。
なぜその思考になるのか、リチャードにはさっぱりわからなかった。
この国で、姫さまと呼べば振り向くのは彼女しかいない。故に、リチャードが彼女のことを名前で呼ぶ必要は欠片もないのだ。
「なぜ、そのような話に?」
「だって、名まえ、よんでくれないもの」
「『姫さま』と呼んでいるではありまんせんか」
ソファに腰かける少女に視線を合わせるため、リチャードは膝を折る。片膝をつけば、リチャードの視線は、少女より低くなった。
下から覗き込むように薄紫の瞳を見上げれば、少女もまた自分をじぃっと見ている。水を張る瞳は、水滴をのせている花弁ようだった。
「りちゃーど、名まえをよぶってことはね。だいじなのよ」
「そうなのですか?」
「そうよ。すきって気持ちを、いっぱい込めて、名まえってよぶもの」
「……はぁ」
間抜けた声が漏れた。リチャードが生きていた中で、一度も聞いたことがない理論だったからだ。
『好き』という気持ちを込めて、『名前』を呼ぶ。
名前がない状態で生きてきた幼少時があるリチャードには、不可解なことでしかなかった。そもそも、誰かを呼びかけるのに一々気持ちを込めるというのも、理解しがたかった。
「名前を呼ぶのに、好きを込めるのですか?」
「そう。きらいな人を、名まえでよばないでしょう?」
「姫さまの言うことは、俺には難しいです」
「んむ」
「唇をとがらせると、鳥になってしまいますよ。レディ」
血色のいい、ピンク色の尖った唇を指でつまむ。当然、話すことができなくなった少女は、両腕をじたばたと上下に振って、声なき抗議を行う。
じたばたと何度か腕を振って、そのままぷぅと頬をふくらませる少女を見て、リチャードはようやく手を離した。
「レディの口をつまむなんて、きしさまのすることじゃないわ」
「俺は姫さまの世話役もかねてるので」
「もぅ! りちゃーど、そういうのを、へらず口っていうのよ!」
少女の口から出た言葉に、思わず頬が引きつる。おおよそ幼いお姫さまの口からでる言葉ではない。
「姫さま、『減らず口』なんて、誰から聞いたんですか」
「じぇーんが、あたらしくはいった子に、いってたわ」
ジェーンとは、姫さまのメイドである。リチャードとそう年の変わらない、気の強い女だ。
姫さまが好き過ぎて、暇さえあればリチャードにも喧嘩を売ってくる女でもある。
「あんのクソアマ」
「く……?」
「なんでもありません。それより姫さま、姫さまは折角可愛いお顔なんですから、そういう汚い言葉は言ってはいけませんよ」
「りちゃーど、あれもダメ、これもダメってばっかり! わたしがいっぱいダメなら、りちゃーども同じくらいダメじゃないと、ダメよ!」
ぴしっと小さな指を突きつけてくる少女に、絶対これもジェーンの影響だろうなと限りなく正解に近い推測をたてる。
絶対後でシメる。
そのひとつだけを心に決めて、リチャードはこてりと首をかしげた。
「汚い言葉を使うと、かわいくなくなってしまいますよ」
「姫さまは何をしてもかわいいですよって、昨日いったのはりちゃーどだわ」
あげ足をとるな。
「姫さま」
ワガママはダメですよ、と気持ちを込めて名まえを呼べば、姫さまはつんとそっぽを向いた。さっきまで自分に向いていた瞳は、今は別方向を見ている。
「名まえでよんでくれるまで、わたしも名まえでよんであげないんだから!」
「はい?」
「ごえいかんさま、が、わたしを名まえでよぶまで! わたしも、ずーっと! ごえいかんさま、ってよぶわ!」
つーん。そっぽを向きながら宣言した少女に、『それが何だっていうんだ』という気持ちと、『かわいくねぇガキだな』という気持ちを抱きながら。
わかりました、といつも少女に見せる笑顔と声で、リチャードは静かに返した。
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