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3.リチャードの間違い
結論からいうと、数日経ってもリチャードは変わらず「姫さま」と呼んでいた。
勿論、宣言通り「姫さま」も「ごえいかんさま」と呼ぶ。つい先日まで「りちゃーど」とつたなく呼んでいたにも関わらず、「ごえいかんさま」なんて呼び方をするものだから、城の人間たちの視線が痛い。
その中で、唯一楽し気なのは、なぜかリチャードに対抗意識を燃やしているジェーンだった。
今日も今日とて、姫さまの私室の前で護衛をするリチャードに、移動中だったのだろう、ジェーンがにっこりと笑いかける。
「ざまぁないわね、クソ護衛官様」
「……仕事中に私語をするのはいかがなものかと思いますよ、クソアマ」
「ハンッ、育ちの悪さが隠しきれていないんじゃなくって?」
「ブーメランって言葉、知っています?」
「なんとでも言うがいいわ! わたしは! 名前を呼ばれているもの! 『ジェーン』ってね!」
今にも高笑いしかねない態度のジェーンに、リチャードは隠すことなく舌をうった。対等に話をしているが、それはなにも現在の役職が同じようなものだから、というわけではない。
ジェーンは、今でこそ子爵家の令嬢だが、生まれはリチャードと同じスラムだ。リチャードと違う所は、その体に流れる血が、確かに半分は子爵のものということだろう。もっとも、もう半分は娼婦のものだが。
子爵が懇意にしていた娼婦が孕み、店で適当に産んで、適当に名前をつけて、放置していた。そして娼婦が死んだあとに、父親である子爵に引き取られた女。それがジェーンだ。
文字にするとロマンチックな響きであるが、実際はそうでもない。好色家の子爵は、他にも何人も娼婦を抱え込んでいて、屋敷にはジェーンと同じような境遇のガキがごろごろいるという話だ。
もっとも、これらはすべて再会したジェーンが話していたことだったり、人づてに聞いたことだ。リチャード自身は、再会してもジェーンだとわからなかったし、ジェーンが自ら名乗ってもピンとこない。
同じスラムにいた、らしい。
リチャードの、その態度もジェーンは気に入らないのか、こうやって度々絡んでくる始末だ。
「というか、アンタなんでお名前で呼んで差し上げないのよ」
「呼ぶ必要性を感じない」
「はぁ? リラ様が喜ぶってだけで最重要事項でしょうが」
「真顔で何言ってんだ正気か?」
濁った灰色の瞳が、じぃとリチャードを見つめる。そのまっすぐ具合に、目の前の女の正気具合をしっかりと感じ取って、リチャードは心の中で五歩は引いた。
実際は背中に扉があるせいで、欠片も身を引けていないが。
「リラ様が喜ぶ以上の重要事項が、この世界にあると思う?」
「いや、あるだろ。陛下のご命令とか」
「わたし、陛下直属じゃないもの。アンタもでしょ」
「姫さまの上は陛下だろうが。つか、いい加減仕事戻れよ」
「……アンタ、『護衛官』って何なのか、本当にわかってんの?」
吐き捨てるようにそれだけ告げて、ジェーンはくるりとリチャードに背中を向けた。
彼女の言葉に眉間に皺を寄せるリチャードなど、どうでも良いという風に。迷いのない足取りで、毛の長い絨毯が敷き詰められた絨毯を進んでいく。
そんな彼女の背中を、リチャードは黙って見ていた。
『護衛官』とは、文字通り『護衛』するものである。
通常の騎士と違う所は、騎士の所属が『国』であることに対して、『護衛官』の所属は『王族の誰か』であることだ。
騎士は、有事の際にやるべきことが定まっている。第一騎士団はどこを、第二騎士団はなにを、という風に。今上陛下を頂点、騎士団長を次点においたそれは、上下関係がきっちりと定まっている。
対して、『護衛官』がやることは一つだけだ。自分の『主』を護ること。その一点のためならば、『護衛官』は誰に対してでも命令が可能だ。
現在の『護衛官』は三人。
ひとりはリチャードの師である『国王陛下の護衛官』。
もうひとりはリチャードの姉弟子である『王妃陛下の護衛官』。
そして三人目が、リチャードだ。
「……だたの、専属の騎士、だろ」
「どうかされましたか? 護衛官殿」
ぼそりと呟くリチャードは、突然の声にびくりと肩を跳ねさせた。ばくばくと鳴る心臓を自覚しながらも、ゆっくりと声の方を向けば、ガラス板を隔てた薄い黄色の瞳がリチャードを見ていた。
その人物に、リチャードはゆっくりと肩の力を抜く。
「先生、もう授業は終わりで?」
「はい。姫さまは飲み込みが早いので、本日分はもう終わってしまいました」
「さようですか。では、お帰りに? 城の入口まで侍女に案内させましょうか」
先生――姫さまの教師を勤める男は、おだやかに笑う。笑うと目が細くなって、薄黄色の瞳がほとんど見えなくなるのが、この男の特徴だった。
そんなことを思いながら、自分より背の低い男を無表情で見下ろすリチャードに、男は特に不快を感じることはなかったらしい。
「いえいえ。さすがに、一年も通っておりますので、入口までの道はわかりますよ」
「そうですか。では、お気をつけて」
「はい。姫さま、本日は失礼致します」
くるりと中を振り返り、教師の男が腰を折る。中では、姫さまがにっこりと笑って、初めて会った時よりはスムーズな動きでドレスの裾をつまみ、膝を折った。
あの挨拶はあくまで高位の人間相手にするもので、姫さまの場合は陛下ぐらいにしかしないものなんじゃないのか。
そんな事がリチャードの頭を過る。
しかしすぐに、誰も咎めないということは今はまだいいってことだろ、と一人で結論を出した。実際に、陛下や貴族の人間がどう考えているかは知らない。
自分と違い、細い体が廊下を進み去っていくのを横目で見ながら、姫さまの私室に足を踏み入れる。
彼女はもうこちらを見ておらず、長椅子に体を預けていた。
その、疲れている様子に首を傾げ、傍に膝をつく。
「どうかなさいましたか」
「……なんでも、ないの」
「姫さま」
「よばないで」
小さく、けれどもしっかりとした声で、彼女はリチャードの声を遮った。
そのことに、思わず目を丸くしてしまう。
「……そのよばれ方、いやなの」
「先ほどの教師は、そう呼んでいたのに?」
「だって、先生はわたしじゃなくても先生をするわ」
「はい?」
姫さまの言いたいことは、リチャードにはいつだって難しい。
「あなたは、わたしの『ごえいかん』でしょう?」
「はい」
「わたしの、『たて』で、『つるぎ』でしょう?」
「はい」
「わたしは、あなたの『とくべつ』でしょう?」
その問いかけに、言葉が詰まった。
頷くだけだ。先ほどまでと同じように、肯定すればいい。
だというのに、リチャードは喉につっかえたように、肯定できなかった。
そんなリチャードを見て、姫さまはぱちりとまばたく。
そして、眉をさげてわらった。
「めいれい、よ。りちゃーど」
間違えた、と。初めて自分の選択を、行動を、後悔した。
「わたしのことは、『リラ様』と。そう、よんで」
「はい、リラ様」
望まれるがまま呼んだのに、彼女は花のようには笑ってくれなかった。
自分も、いつものような笑みを浮かべることができなかった。
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