通りすがりの恋心

1/1
前へ
/1ページ
次へ
ある休日の昼下がり。 私が何気なくコンビニに行くため、 Tシャツとハーフパンツという部屋着のまま、 家の外に出て坂道を歩いている時だった。 ある男性に声をかけられた。 私はそんなに容姿がいい方とは言えないのだけれど、 ナンパのために声をかけられる事は少なからずあった。 女性なら、割と多いと思うので別に自慢ではない。 彼氏はいないけれど、 道行く女性に片っ端から声をかけるような軽薄な男性は、 どんなにイケメンであっても苦手なものだ。 何よりノーメイクだし……。 私はウンザリした表情で、振り返る。 「あの、すみません。今、お時間よろしいですか?」 「……いえ、その。少し急いでまして……」 コンビニになんて、別に行かなくてもどっちでもいいので、 もちろん嘘である。 ナンパの場合、ここから二度、三度食い下がってくるだろう。 その受け答えを考えると、非常にめんどくさい。 男性は、私より頭一つ分くらい背が高く、 整えられたツーブロックの髪型が非常に爽やかだった。 スラリとした等身で、タイトなTシャツの上にジャケットを羽織った、 いかにも女性受けが良さそうな格好をしている。 年の頃は私と同じ、二十歳くらいだろうか。 私が少し身を引いていると、男性は実にあっさりとした口調で、 頭を下げてきた。 「そうですか。失礼いたしました」 そして、私に背を向けて、ゆっくりと坂を下っていく。 「ちょ、ちょっと待ってください!」 「はい?」 私は思わず声を上げていることに気づき、はっとして口元を押さえる。 しかし、時既に遅く、男性はしなやかな動きで私の方へと振り向いた。 声をかけてしまった手前、何でもないですとも言えない。 私は仕方なく、小さく浮かんだ疑問を投げてみる。 「あの、もしかして。何か困っていますか?」 「ええ、実は仰る通り。大変困った事態になっています」 先ほどから少し印象が変なのが、見た目とは裏腹に、 身のこなしや口調がものすごく畏まっている。 何なのだろうか、この違和感は。 「実は……」 「ええっ!? ちょっと……!?」 私は思わず両手を前に出して身構えた。 なぜなら、男性はおもむろにTシャツを胸元までまくり上げたからだ。 紳士的な変質者だったのかと驚いたのもつかの間、 私はその胸元に空いた小さな穴に釘付けになっていた。 「いきなりすみません。魂をなくしてしまった様子で。  出来れば、一緒に探していただきたいのですが」 「え、それは大変」 23世紀の現在、人間は魂のデジタル化に成功し、 肉体と魂を分離することに成功していた。 魂はともかく、体というものは生来から選べず、 例えば性同一性障害の者は心と肉体の不一致に苦しんでいる。 そういった人を救うべく、魂をデジタル化させ、 また高レベルなバイオ技術をもって作成された、 擬似的な肉体によって、 魂を好きな体に載せ替えるということが自由に出来る時代だ。 現在ではその技術がかなり一般化していて、 整形手術感覚で、ボディを切り替える者も少なくない。 私は生身であるが、知り合いに何人か、魂を分離させている者がいる。 分離した魂は、小さな透明な容器に入れられ、 疑似肉体のいずれかに埋め込んで使用される。 人間の魂というものが、ビー玉程度のちっぽけなものとして、 具現化されてしまうことに、いまいち信憑性に欠けるが。 まあ、ぷにぷにの脳みそに宿っているというのも、 まだまだ信じがたいものではあるんだし。 ともかく、そんな大切なものをなくしたなんて一大事だ。 早く見つけた方がいいけれど、そもそも貴方は誰なのか? そんな私の様子を察したのか、男性は落ち着いた口調で話す。 「私は、このユーザー様のサポートAIです。  魂が本体から外れてしまった場合に、  ユーザー様の代理でボディの操作を肩代わりいたします」 「ああ、そうなんですね」 なるほど。先ほどから感じていた違和感はそういうことか。 彼は、彼であって彼でない。 今は魂の抜け殻ということだ。だから、人間性というものがないのだ。 もっとも、魂を人工的に分離出来てしまうこのご時世で、 人間性などあってないようなものかもしれない。 実際、AIだという男性のインターフェースは、 非常に円滑に受け答えをしており、言われなければ気づかないレベルだ。 かなり高級なボディなんだろうな。 「その、魂はどこでなくしたんですか?」 「ええ。ログを参照すると、この坂道を下ろうとしたところ、  胸元の留め金が外れてしまい、服の下から転がり落ちてしまった様子で。  ユーザー様はマニュアル通りに留め金を設定されなかったようです」 「じゃあ、この坂を転がって行った可能性が高いですね。  わかりました。一緒に探しましょう」 「そうして頂けると、大変助かります。ありがとうございます」 男性はにっこりと笑った。 その表情がとても魅力的に感じたので、私は少し頬が紅潮するのを感じた。 いかんいかん。 彼はサポートAIであって、心をときめかせるような相手ではないのだから。 私と彼は、坂道をゆっくり下りながら、魂が電柱や標識の根元や、 排水用の溝に引っかかっていないかを確認する。 しかし、どこにも見当たらない。 気がつくと、坂道のふもとまで下りきってしまった。 その先には、ガードレールを挟んで小さな川が流れている。 「考えられるのは、この川に落ちた事ですかね」 「そうですね。では、この下を調べてみます」 そう言うと、彼は靴と靴下を脱ぎ、 スラックスの裾をまくし上げて川に入る準備を始める。 「じゃあ私も……」 「いえ、無理はなさらず。  川の水質はあまり綺麗とは言えませんし、足下が汚れてしまいます。  通りすがりの方に、そこまでして頂くわけには……」 彼は申し訳なさそうにしながら、私に気遣いを見せた。 私は自然と笑顔になりながら、彼より先に川へと飛び込んでいた。 「大丈夫です! 私はサンダルですし、深さも膝下くらいですから」 こんな思い切ったことをするなんて、私自身が驚いている。 彼は、私に遅れてガードレールを乗り越え、川の中へと下り立った。 春先だけれど、日が照っていることもあり、水温は生ぬるい感じ。 いざ勇ましく飛び込んではみたものの、 彼の言ったとおり水質は悪く、川底はほとんど見えない。 しかし幸運なことに、流れがかなりゆっくりだった。 「あの、魂ってどれくらいの重さですか?」 「およそ500gですね。かつては21gと言われていましたが、  現在は、各サービス業者の仕様によって違います」 「なるほど。であれば、このくらいの川の勢いなら、  流されることはないですね」 「ええ、そのはずです。探しましょう」 私と彼は、前屈みになって、川底を漁る。 まさか、普段からよく見ているけど、汚いなと思っていた川に、 入る事があるなんて思ってもみなかった。 でも本当にそうなのか。 私は、困っている彼を助けたい気持ちでこんなことをしているのか。 正直わからない。 だから、つべこべ考えずにとにかく、川底を漁ることに集中した。 その間、彼は色々な話をしてくれた。 ゴミを見つければゴミ問題の話、 逃げていく小魚を確認すれば、生き物の話になったり、 少しだけ彼を開発した会社の宣伝が紛れつつ、 川に反射する光から、星座の話に発展したりした。 彼の本体であるユーザー様とやらのプライバシーに触れることは全くなく、 時にはジョークも交えて話してくれるので、 私は薄汚い川漁りも、表情筋が痛くなるくらい笑いながら続けられた。 会話ルーチンも、かなり高機能なものみたいだ。 気がつくと、一時間くらいが経過していた。 かなりの範囲を捜索したのだが、割れたガラス片やら、 壊れたプラスチックケース、 空き缶やペットボトルの蓋くらいしか見つからない。どれもハズレだった。 「ああ、見つからない。だめですね……」 私は、腰をトントンとたたきながら、彼の方を見た。 一応私は大学生なので、体力にはまだ自信があるものの、 インドア派なので長時間腰を落として作業していたために、 体の節々が痛い。明日は筋肉痛だろうなあ。 その時、のけぞり過ぎたのか、足下が滑る。 「あわわっ……」 「危ない!」 川に背から倒れ込みそうになった私を、彼がとっさに抱えてくれた。 私も、慌てて彼の背に抱きつくように手を回す。 「ふう、大丈夫ですか?」 「はい……。すみません……」 心臓の鼓動が高まる。 足が滑って転びそうになり、焦ったためだろう。 そうに違いない。断じて、彼の体に触れたためのドキドキではない。 「少し休憩しましょう」 彼の提案によって、私たちは一旦川縁のアスファルトに腰を落とした。 まだ胸の高鳴りが止まずにいた。 私が一息ついていると、彼が後からやってきて隣に腰掛ける。 「どうぞ」 「あ、ありがとうございます」 彼は、缶コーヒーを差し出してきた。 近くの自動販売機で購入したらしい。 実に、手際が良くスマートだった。 しかも私がよく飲むメーカーの、微糖のものだ。 まさか、偶然だよね……。 「私の好み、ドンピシャです」 「それはよかった。先ほど川でお話させて頂いたときに、  おおよその好みは把握いたしましたので。  統計を取るのは得意なのです。AIですから」 そう言って、彼はニッコリと笑った。 私は、また思わず顔をそらした。今にして思うと恥ずかしい。 結構、自分のことを彼に語ってしまった。 それを彼がちゃんと聞いていて、 しかも私が喜ぶように動いてくれるなんて……。 なんだか嬉しいような、申し訳ないような、恥ずかしいような。 缶コーヒーのプルタブを開け、私ははっと気づく。 「すみません、コーヒー代を……」 小銭があるかな。私はポケットを漁ってみる。 しかし、出てきたのは食べかけのジャーキーだった。 家にいたとき、これにかじりついたはいいものの、 一緒に飲むお酒がなくてコンビニに行こうと思いついたのを、 すっかり忘れていた。 こんなロマンチックのかけらもないものは、絶対に知られちゃいけない。 「いえ、私も水分補給は必要ですし、  そのついでにユーザー様の保証範囲で購入させて頂きました」 彼も、ミネラルウォーターをグビグビと飲む。 「ははは、いいんですかね」 「ナイショですよ」 彼はウィンクしてくる。 こんなお茶目な一面もあるんだ……。 私は少しボーッとしながら、コーヒーをちびちびと飲んだ。 10分程度休憩した後、彼の方が立ち上がった。 「さて、再開しましょうか。  ただ、もう少し探して見つからなければ、本社にヘルプを呼びますので。  お疲れでしょうし、もうこの辺で帰って頂いても……」 「いえ、乗りかかった舟ですし。もう少し、お手伝いしますよ!」 「そうですか、ありがとうございます」 彼は、優しい微笑みとともに、私の目をじっと見つめてくる。 私はまた、ついついその視線を外してしまう。 しかし、今回はそれが功を奏した。 反らした目線の先に映った小さな白い猫。 私の胸元くらいまである民家の塀の上に、ちょこんと鎮座している。 「あれ……?」 その口元に、小さなガラス玉を咥えていた。 キラリと光るその中に、魂の鳴動を示す渦のような奔流が確認できる。 「あの猫ちゃん!」 私の言葉に、彼が猫の方を見やる。 しかし、その声と気配が自分に向けられたものと察したのか、 白猫はパッと警戒態勢に入った。 そして、じりじりと後ずさる。 「逃げちゃう……ッ!」 私は急いで追いかけようとするが、その手を強く握られた。 「待ってください!  あまり刺激すると、どこか隙間に逃げられてしまいます。  ここは、焦らずゆっくり、獲物を仕留めることとしましょう」 「え、ええ……。はい。わかりました」 私は猫のことよりも、手を握られた事の方に気が行っていた。 左手首に伝わる、力強くも暖かい感触。 なんだろう、もっとこうしていたい気持ちが出てくる。 「とはいえ、私も猫に対応するマニュアルは用意していません。  何か策は……。そうですね、何か気を引く物でもあれば」 彼はそう言って周囲を見渡す。 けれども、オモチャや猫じゃらしが、そう簡単にあるはずはない。 私も思案を巡らせる。 「……そういえば!」 私はポケットの中から、あの食べかけのジャーキーを取り出した。 まだ半分以上は残っている。 それを、猫の目の前にちらつかせる。 猫の様子が明らかに変化する。 警戒色を弱め、ジャーキーの方へと首を伸ばし始める。 「ほーら、そんあ味気ないガラス玉より、こっちの方が興味あるでしょう」 まさに猫なで声で、ジャーキーの香りが届くように、 目の前で揺さぶりをかける。 猫はたまらず、口からポロリと魂を落とし、 ジャーキーに飛びついてきた。 「あっ……、い、いたっ!?」 私はそれを受け取るのを猫に邪魔される。 さらには、ジャーキーを奪われて猫パンチまでお見舞いされる。 思わず体勢を崩し、尻餅をつきそうな所を、彼が受け止めてくれる。 「大丈夫ですか……?」 「はい、それより。魂スフィアは……!?」 背に彼のぬくもりを感じつつ、私は周囲を見渡す。 猫パンチのせいで魂の行方を見失ってしまった。 白猫は、ジャーキーを咥えながら、 軽快な足取りで塀の向こうへと消え去っていったのが見える。 「どこに行った……?」 私の数メートル先。道路の上をキラリと光る球体が、 転がっているのをようやく見つける。 「いけない……ッ!!」 その転がる方向は、車が行き交う道路の方だった。 先ほど彼が言っていた事を思い出す。 魂の外装は透明なガラス製ながら、 その命を守るだけあって非常に硬質な特殊製とのこと。 しかし、いくら強化ガラスで出来ているとはいえ、 走行中の車に踏みつけられたら、壊れないという保証はない。 私は急いで立ち上がり、一目散にそちらへと走った。 スフィアは歩道の端の溝に当たって跳ね上がり、 道路へと飛び出す間際だった。 私はとにかくガラス玉に飛びつく。 運動神経は決していい方ではない。 でも、この魂をキャッチする執念を神様が認めてくれたのか、奇跡が起きる 私の伸ばした手のひらのちょうど先、 つかみ取りたい一心で握った手の中に、見事に収まった! 「やった……ッ!?」 嬉しい感情から一転、私はつまずいて歩道に転倒してしまう。 車が目の前を、ブンブンと風を切って過ぎ去る。 間一髪だった。 人助けをしようとして、車道に飛び出て轢かれてしまうなど、 笑い話にもならない。 我ながら、とんでもないことをしたと思う間もなく、 私の右側から嫌な気配を感じた。 この耳障りな音は……。 使い込まれて油が切れているような自転車の、 金切り音のようなペダルをこぐ音だった。 「ひえっ……!!」 「ちょちょちょーっと!!」 乗り手のおばさんの焦る声とともに、 自転車の急ブレーキ音がキキキーッと鳴り響く。 私は魂を握りながら、目をつぶって衝撃に備えるしかなかった。 しかし、その衝撃は来なかった。 「ふう、間に合いましたね」 目を開くと、彼の大きな背が私の前に立ちはだかっていた。 彼が身を挺して、自転車と私の衝突を阻んでいたのだ。 おばさんの急ブレーキで止まりかけていたのもあるだろう。 彼は、ハンドル部分をしっかり押さえて、自転車を踏ん張って止めていた。 「ちょっと、いきなり飛び出してくるなんて何考えてんの!」 「申し訳ございません。けがはありませんか?」 「ないわよもう! 急いでるんだから、どいてどいて!」 おばさんはひとしきり叫んだ後、 自転車をこいで颯爽と過ぎ去っていった。 私はというと、呆然とした顔で彼の方を見ていた。 おばさんを見送った後、彼が私を抱き起こした。 彼がポンポンと、服に付いた土埃を払ってくれるのを、 私はなすがまま見ているだけだった。 「お怪我はありませんか?」 「は、はい……。大丈夫です!」 「全く、無茶される方ですね……」 心配そうにしている彼をこれ以上気遣わせないよう、 私は精一杯の元気を持って応える。 一呼吸置くと、少しだけ冷静さを取り戻せたようだ。 手の中の物の無事を確認しなければ。 ようやく戻ってきた。 魂は、ビー玉より少し大きいくらいのサイズ感だ。 手のひらに収まるくらいの、小さな命の球体。 猫の口元にありながら、 アスファルトの道路を転がりながら、 全くキズは付いていなかった。 私は、それを握りしめながら、ほっと一息ついた。 同時に、達成感もあった。彼の大事なものを見つけてあげられた 「ありがとうございます。  貴方がいなければ、これは見つかりませんでしたし、  取り返せませんでした。  ユーザー様に代わって、お礼申し上げます」 気がつくと、彼の顔が近くにあった。 彼も、魂の様子が気になったのだろう。 お互い、目線が至近距離で交錯する。彼の吐息が、私にかかるくらいだ。 私は、少し照れくさくて、またも思わず目を背けてしまった。 二人の間に、不思議な時の流れが過ぎていく。 「では、この魂スフィアを……、よければはめて頂けませんか? 「はい、わかりました。喜んで」 彼は、シャツを胸元までたくし上げて膝を落としてくれたので、 私はその胸の台座に、球体に収められた魂をはめ込む。 カチリと音を立てて、留め金がかかる。 「魂接続開始……」 男性が虚空を向きながら、これまで以上に機械的な声を発する。 魂とボディが無事に連結されたのだろう。 魂を持つ本人の人格が起動し始める。 私はその間、まくり上がったシャツを直してあげる。 目覚めるまで、十数秒だろうか。心が自然とワクワクしている。 白雪姫にキスをして、 彼女が起きるのを待っていた王子様はこんな気分だったのだろうか。 「……ん、なんだ」 男性の瞳に、なんとなく魂が宿るのを感じる。 「君は……」 私に視線を向け、周囲を見渡す。 見慣れていない景色に戸惑っている様子だ。 私が説明しようかとする間に、男性の方が言葉を発した。 「ああ、なるほどそういう事。  今、ログを参照したんだけど、いやー、危ない危ない。  魂が破損しなくて良かったよ。あー怖い怖い」 男性は、私を横目に、 自身の体をまさぐりながらチェックを行っているようだ。 あれ、何だろう。この気持ち。 ひとしきりセルフチェックを行った男性は、 気がついたように私の方へと向き直る。 「よければ、お礼をしたいんだけど。この後カフェでも行かない?」 「あ……、いえ……」 何か違う。 さっきまでなら、一も二もなく頷いていたはずだ。 でも今は、とてもそんな気にはなれなかった。 あれだけふわっと私の心をざわつかせていた淡い気持ちが、 一瞬にして冷めていくのを感じる。 そう、この人の魂は、彼ではないのだ。 それが仕草や雰囲気、特に瞳で強く感じられる。 「通りすがりですし、用事がありますのでお気になさらず」 「そう。じゃあ、仕方ないね。  いやー、どうもありがとう! それじゃね!」 男性は、手をぶんぶんと振りながら、 軽快に跳ねるように私の視界から消え去っていった。 一応、小さく手を振って応えるものの、うまくは笑えていないと思う。 先ほどまでの、顔や体の火照りが嘘のようだった。 「さて、コンビニに行こうかな……」 私は、なんとも言えない気持ちを整理できず、 濡れてさらには汚水で臭いそうなサンダルを引きずるように、 坂道を急いで駆け上がり、家に帰る。 そして、バッチリお化粧をして、それなりにいい服に着替えて、 再度コンビニに向かった。 数時間前に家を出たときとは、まるで違う気持ちだ。 「猫缶でも買おうかな」 坂道の向こうから差す、まぶしいくらいの夕日に、 私の口元は自然と笑顔になっていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加