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「なあ、うちの奥さん怖いよな?」
すがるような口調でおもわず高橋に尋ねた。
「んー? 怖いってのとは違うんじゃないか? まぁ、とっつきにくいほうじゃないしけど。あ、そうだそうだ。将棋の試合のあとにさ、いつも対戦相手に一筆かいてくれただろ。あれ良かったよ。喋るの旨くないし、文字にした方がちゃんと伝えられるからって、良かった点と改善点書いてくれてた」
「・・・そうだっけ?」
「お前はすぐサークルやめたからなぁ」
少し自慢げな高橋の声に、心がむずりと痛痒くなる。あいつは他人にはそんな風に気遣いをみせていたのか。俺にだってそういう優しさを示してくれたっていいじゃないか。
やっぱり俺の気持ちの中にある重苦しいものの責任は妻にあるのだと実感する。沸いたいら立ちを原動力にしてさらに机の奥に踏み込む。机の奥には俺が山と積んだ本や漫画がたまりにたまっている。これを取り崩すのはさすがにげんなりだ。と、鼻をくすぐる埃の大群がやってきて、
「ぶっへぇーしゅっ」
豪快にとばしたクシャミに積もった埃が舞い上がる。
「・・・おーい。大丈夫か?」
高橋の声にうなずきつつ、埃をさけて顔をそむけた視線の先に一本の白い万年筆が目に入った。
「あ」
「お!あったか?」
高橋に返事をする余裕もなく、俺はその万年筆に手をのばす。心地よい重みが手に馴染む。恐ろしいほどすっぽりと忘れていた記憶が蘇る。
━交換日記しない?
そう妻が言い出したのは、息子が生まれた翌日だった。
━誰と?
撮影したばかりの息子の映像に夢中で、顔もあげずに問う俺に、妻はゆっくりとこたえてくれた。
━あなたと私で。きっと、これから育児で忙しくなって、お互いいらいらすることも増えると思う。傷つける言葉も投げ合うと思う。そういうときに、本当の気持ちをきちんと残せるようにしたい。
視線をあげると妻と目が合った。妻が半身を起こして横たわるベッドはずいぶん高さがあるせいか、低い丸椅子に腰かけた猫背の俺は妻をみあげるような気分になった。いつもと違う角度から見る妻の顔は、ふだんよりもずっと柔らかかった。
そうだ、妻はこんな顔をしていたんだ。
━俺はそんなことしない自信しかない。
━私は言葉にするの苦手なの。言葉を飲み込んだまま愛想よくもできない。
だから、喧嘩したり、うまく言えないことがあったら文字に残して伝えたい。あなたも気が向いたらそこに返事をしてよ。
━君の字はきれいだもんなぁ。大学の時、誰が棋譜を書いてくれたかすぐわかったよ。俺、どれだけの枚数があっても君の棋譜を見つけられる自信あった。
━そう? みつけてくれてありがと。
妻はなぜか恥ずかしそうにうつむいた。
その耳まで赤くなった様子が愛おしくて、俺は彼女のために何かしてあげたくてたまらなくなった。
━あ、じゃあさ、せっかくだから記念にちゃんとしたノートとペン買おう。それで、最初に今日のこと書くんだよ。
━賛成!!
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