下段の香に力あり

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 あのとき俺は一目散に文房具店に走って、この真っ白な万年筆とノートを買って帰った。そして、ノートの初めのページに息子の名前を書いたんだ。  あのノートは?   深い深いこの埃にまみれた世界のどこかに埋もれているはずだ。俺は目の前に積み重なっている読み捨てた漫画や本の層を思いっきり崩した。  倒れた本の向こうに、机の背面と接している壁が現れた。  そして、机と壁の間に、一冊の、思い出したばかりのノートが姿を見せた。力尽きる寸前の、よれよれの姿で引っかかっている。  丁寧に、そのノートをひっぱる。ころり、そのノートの向こうから将棋の駒もころがりおちる。どうやら机の上に置いておいたものが、ノートごとすべりおちてここに挟まっていたようだ。  よれたノートのページを伸ばそうとする。元にはもどらない。当然だ。  俺は大事なものを亡くしてしまったのだろう。  長い間、将棋の駒が挟まっていたページが不恰好に膨らんでいる。いまにも切れてしまいそうな細い糸をたどる気持ちでそっとページを開く。妻が書いたと思われる「もう一度みつけてくれる?」という記載。  何をだよ?  小さくため息をついて、俺は今の気持ちや感情もそのうちあっさり忘れるんだろうなと思った。難しいことを考え続けるのは好きじゃない。負けが見えたら頑張りたくないじゃないか。ならいっそ、忘れてしまうのが楽だ。そうか。俺が将棋をやめたのもそんな理由だった。俺が妻との会話を避けるようになったのも。 「おーい、『金』はあったのかよ?」 高橋の声に我に返る。落ちていた将棋の駒をつかみ、その駒を見たとたん、俺から剥がれ落ちていたものをようやく見つけた気がした 俺は、ははっと笑った。 久しぶりに笑った。這い出しても笑いがとまらない。 「なんだよ。将棋できるのそんなに嬉しいのかよ」   引き気味の高橋に謝りながら、俺は大事ににぎりしめていた将棋の駒をみせる。 「見つけたんだよ。『金』よりもっと大事なもの」 「あー、やっぱりないなと思ってたんだよな。だけど、なんだよ『金』より大事って?」 「大事だよ」  俺はやっとみつけた『香車』をそっと盤の上に戻す。手に入れた駒を、再び前に進ませることができるのは将棋の特性だ。  まっすぐに進むことしかできない不器用な駒だけど、下から支えてくれる時には抜群の力を発揮する。  妻の名前は「香子」という。
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