マチと紳士なお客様

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 商店街の1本裏道、とある閑静な住宅街にその店はある。店の名はEn-chant(エンチャント)。覚えにくいのか、近所の人達には「何でも屋」と呼ばれていた。  ある清々しい初夏の朝のことだった。  その何でも屋の店主マチはいつものように陳列作業をしていた。たまに女優と間違われる、まだまだ元気な30代。長い髪と夏らしい水色のデニムワンピースをBGMに合わせて小さく揺らしながら、今日は何を目立たせようかな、と小物の位置を入れ換える。ここにあるものはほとんどが一点物だ。閉店した個人商店のスペースを借りた店内には、壁際には高い棚、中央には低い棚が並び、その木の温もりの中で雑貨から洋服まで取り取りの品物が客を待っていた。  カラン、とドアのベルが鳴った。  やって来たのは男性客だ。三つ揃いのスーツをスラリと着こなした姿に、この壮年男性は一体どこから来たのだろう、と素直な疑問がマチの頭に浮かんだ。黒い中折れ帽子に丈の長い黒マント、さらには黒い立体マスクまで身につけていて、季節にはお構いなし。En-chantにはこうして、変わった客がよく訪れる。  ゆったりとした足取りで置物の辺りを見て回る男性は、実に紳士的な様子だった。頃合いを計って、マチは和やかに声をかけた。 「こんにちは。何かお探しですか?」  紳士が振り返る。二重の目の端のしわが、屋外よりも落ち着いた明かりの下で優しそうに見えた。彼はしわを深くして、上品な低音でこう言った。 「ちょっと、アイデンティティを探しに来ました」 (んんー?)  これは一筋縄ではいかないかも、とマチは相手を見つめ返した。  
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