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旗を振る民衆。鳴り響く管楽器。多くの声援に迎えられるは人類の希望、勇者パーティだ。その一人一人が王都の門を通り抜ける度、周囲は豪雨のような拍手と歓声に包まれる。
名門宮廷魔導師家の娘にして、千年に一度の天才と呼ばれる武闘魔術師。
闘技場で名を馳せ、奴隷階級から一級市民まで上り詰めた、最強の肉体を持つという戦士。
森に生きる賢人にして、人智を超えた腕を持つという伝説の弓士。
あらゆる傷や病を癒やし、あらゆる穢れを払う。歴代最高と噂される聖女。
そして──
「勇者様だ! うおおお!」
「 勇者様のお帰りだぁぁッ!!」
先程までにさらに輪をかけた歓声が、辺りの空気を猛烈に振動させる。
勇者としての力はもちろん、格闘術や魔法、知略にも優れ、さらには容姿や家柄にまで恵まれた、圧倒的カリスマ──そう評されるその人こそが、僕の兄だった。
「兄さん、よくぞご無事で。」
「あぁ。心配をかけてしまってすまないな。」
父母の熱烈な歓迎の後、僕は兄を連れて夕食へ向かう。そしてさりげなく兄の身体を観察し……胸をなで下ろした。良かった。少なくともここからみて分かるような大きな傷や欠損はない。
今日は実に豪華なディナーだった。一流の料理人を家に招き、肉に果実に、さらにはほとんどの人が名前すら聞いたことがないのではないかという高級な珍味まで、数え切れないほどの皿に、食べきれないほどのご馳走が盛られていた。
ふと、兄の方を向く。兄は、先程までよりは肩の荷を下ろしているようにしているけれど、それでもまだ力が抜ききれていない様子だった。無理もない。父や母が最も待ちわびていたのは、身内の誇りである『勇者』の帰りなのだ。そういった人たちの前では、兄はまだ『勇者』でなければいけない。兄さんが兄さんでいられるためには、僕が必要だった。
「兄さん、今日もまた兄さんの部屋で寝てもいいかな。」
この言葉を聞いた兄の、頬骨のただ一瞬だけ緩むのを見た。
「アンタはいくつになってもお兄ちゃん子だね。」
気づかない母が、僕を茶化すように笑った。
「おじゃまします。」
兄の部屋は、遠征中も極力そのままにしてある。といっても、もとより物の少ない簡素な部屋なのだけれど。
兄はひとつ、僕の名前を呼んだ。僕が戸を閉めてうなずくと、貪るように抱きしめられた。
「兄さん……」
僕はそれを受け入れて、背中をさする。震えていた兄さんの体はその度に落ち着いて、それがとても嬉しく愛おしい。
「兄さん、大丈夫だよ。」
だいじょうぶ、だいじょうぶ。もう十分だろうというところで、ベッドに膝枕して寝かせると、泣きはらした目、切なそうな目でこちらを見てくる。到底勇者だとは思えない形相。胸が、キュンと音がするように締め付けられる。今反応したのは、母性にも近い感情のような気もする。
頬を撫でようと手を伸ばすと、逆に頬を擦り寄せてくる。頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。そこにもう、勇ましい英雄の姿はない。愛しくて愛しくて、きっと僕はこの無意味にも思われうるような動作を、永遠に続けられるだろう。
「……いつもすまない。」
「いいよ、気にしなくて。僕だけには弱い兄さんを見せてよ」
「それじゃあ……」
そう言うと、兄さんは上体を起こして、恍惚な表情で見つめる。
「……私のわがままを、もっと聞いてほしい。」
優しく、視野が回転する。天井は、ひどい顔をした兄さんで覆われた。
「うん。来て、兄さん……」
そっと、唇が触れる。それが合図だった。
目を開けると、兄さんは気持ちよさそうに寝ていた。遠征中はちゃんと眠れているのだろうか。もうお昼も近いけれど、今日はしばらくこうしておこう。
ふと気になって、少しだけ布団をめくり、兄さんの腹部をあらわにした。暗がりだったが、見間違いではなかった。兄さんの溝落ちには、大きな傷跡があった。
反対側、背中も見ると、同様の跡がある。何かが貫いた跡のようだ。これ以外に細かい傷はほとんど見えない。これは、きっと聖女様の力だろう。逆に言えばこの傷は、ただのものではない。もしも……もしもこの穴が左胸にできていたら、聖女様は治すことができたのだろうか。恐ろしい考えが、体中を支配する。末端まで回った毒は、しばらくの間僕の体を動かしてはくれなかった。
一足先に服を着る。軽く頬にキスをして、兄さんの部屋を出る。朝食を作りに向かう。今日は僕が兄さんに振る舞いたいと、厨房にも言っていたのだ。
タタン、タタン。僕はスキップをした。いけない考えは靴音に混ぜよう。辛いだけの「もしも」なんて捨ててしまえ。今日は待ちに待った兄さんとの休日なんだ。タタン、タタン。軽快なリズムは、廊下中に響いた。
早いものでもう出立の日が来てしまった。衣装に袖を通した兄は、もうすっかり勇者の様子になっていた。
「そろそろ……行ってくる。」
家の外には、英雄の姿をひと目望まんとする民たちが大勢待っている。自分はまたその中へ行かなければならないと、兄は手を振る。それがあまりに悲しそうに見えたせいだろうか。どこかへ捨て去ったはずの「もしも」がまた、僕の胸の最も苦しい所へと戻ってきてしまった。
──もしも、兄さんの体の大事なところに穴が空いてしまったら。それが治らないような重症で、兄さんがしん……死んでしまったら。たった一人の兄さんが、いきなり、いなくなって……しまったら。この世界にたったひとりぼっち、残されて、僕は、僕は……
「兄さん!」
胸の奥がねじれて、雑巾みたいに絞られているようで、苦しくて、息もままならなくなる。ごめんね兄さん。ちょっと痛いかもしれないけど、その苦しみの分だけ、いや、それには僕の腕は細すぎたから、そのほんの一部だけだけど、めいいっぱい……僕は兄さんを抱きしめた。
「兄さん……兄さん……」
行かないで。
英雄なんか捨てて、僕だけの兄さんでいて。
全てをさらけだした、弱い兄さんでいて。
それで、もっと僕に甘えて。
ずっとずっと、僕の隣にいてよ……
「……絶対、無事で帰ってきて。」
それが、僕の告げられる精一杯の言葉だった。
「死にそうだったら、すぐ逃げるんだよ。英雄を失う以上の大敗はないんだから。」
「ああ、心に留めるよ。」
「約束だから。」
「わかった。約束だ。」
抱きしめていた腕はするする解けて、僕と兄さんを分離する。
あぁ、管楽器の鳴り響く音が、家の中まで染み込んでくる。怒号は空気を震わせ、壁が揺れるようだ。
勇者は僕に背を向け、英雄を待ち望む民衆のもとへ向かって行く。僕はただ、兄との約束を信じる他に無かった。
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