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6.罠
結局陽光は、終始まるで自身が椅子になってしまったかのようにぴんと背中を張った姿勢のままだった。
別れた後もまだ夢から醒めない様子で、街頭や街路樹の柳にふらふらぶつかっているような有様だ。
それこそ撮影しておいてあいつらの取り巻きに見せてやりたいくらいだったな。
なのに週明けの教室で授業を受ける陽光は、いつもとなにも変わらず、拍子抜けしてしまう。
なんだつまらんと思っていたら、放課後彼がひとり校舎を出て行くのが見えた。寮とは別棟の図書館のほうへだ。
あとを追うと、陽光は埃っぽい部屋の隅で学生服の内ポケットからなにやら四つ折りの紙片を取り出した。無骨な指に不似合いな手つきでそっと開く。ちらっと見えた縁取りの意匠に見覚えがあった。
例の活動のチラシだ。
――あの折りぐせ。そんなに何度も開いて見てるのか。
今はきっと、昨日の出来事をしみじみ思い出しているのだろう。どこかあれは夢だったのではないかと疑うようなまなざしで。
――そんな顔もするんだな。
昨日のパーラーでもそうだった。学校ではいつも、「華族なんて」と忌々しく吐き捨てるような顔しか見せないくせに。
――面白くない。
陽光がやに下がっている相手は他ならぬ自分なのだが、なんだかむかむかしてくる。
ひとつ、意地悪な考えが浮かんだ。
史緒は身を隠してた場を一旦離れると、改めてさも「今やって来ました」というていで、陽光のいる書架の間に踏み込んだ。
「陸奥?」
「た、高遠!」
案の定、陽光は絵に描いたように狼狽える。史緒は吹き出したくなる衝動を必死でなだめながら「ん? それ……」と呟いた。
「活動のチラシじゃないか? 意外だな。陸奥が活動好きだなんて」
「いや、これは、」
陽光が言い訳をひねり出すより前に、史緒はさっとその手からチラシを奪った。
「あれ? 青孤さんの作品じゃないか」
我ながら白々しいと思うが、陽光はあっさりと食いついてくる。
「知っているのか?」
「小川伯爵家の三男だろう。子供の頃から親しくしてもらってる。ああ、そう言えば活動の製作を始めたって言ってたっけ。そんなに面白いのか?」
「……いや、俺は……」
「ああ、この女優のファンなのか」
「……っ!」
陽光は、まるで首でも絞められたように息を詰めた。ぱくぱくと喘いで、陸にいるのに溺れてしまいそうな勢いだ。
――面白い。
つくづく取り巻きたちに見せてやりたい。そうだ。フィルムに残すことが無理なら、なにか別の手段で――
「そんなに好きなら、手紙でも書いたらどうだ」
「は?」
「俺から青孤さんに言付ければ、ご本人の手元に届く」
「……そんなこと。いや、しかし、なんで高遠が」
なんで対立している高遠が、という意味だろう。
対立しているから。もっと弱みを握ってやりたいからだよ。ままならない人生のほんの憂さ晴らしだ――とはもちろん言わない。
「青孤さんにはお世話になってるから。あの人の作品を観てくれる人には、親切にしておこうかな、と」
陽光の珍しく大きく見開かれた目は、如実に語っていた。「なんだこいつは」「華族なんか信じられるか」と。
――いやほんとこいつ馬鹿正直すぎ。
だが、馬鹿正直すぎるからこそ気がついた。疑いのまなざしの奥で、迷いもまた揺れている。
あと一押し。
「余計なお世話だったよな。忘れてくれ。じゃ」
あと一押しだからこそ、敢えてあっさりそう告げて史緒は踵を返した。その背に、絞り出したような声が投げかけられる。
「――待て」
かかったな。
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