10.秘密のファン・レタァ講座

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10.秘密のファン・レタァ講座

 その日から、秘密のファン・レタァ講座が始まった。  図書室ではいつ人が来るかわからないから、開催場所は学生寮の史緒の部屋に変更だ。   堅物のやにさがった秘密を握って笑ってやろうというのが最初の魂胆だったのに、なんだか引っ込みがつかなくなってしまった。 「まずおまえには圧倒的に詩心が足りない。これを読め」  日本語のもの、原文のもの、いろいろ織り交ぜて恋愛小説や詩集を机の上に積み上げる。この辺りは青孤にもらったものだった。七生のために少しずつ運ぼうと隠しておいたものを一挙放出するのだから、感謝して欲しい。 「これを全部か?」  頷くと、陽光は案の定往生際悪く渋った。 「俺は……恋愛小説などは読まん」 「おまえ、家の事業を大きくしたいんだろう?」 「? そうだが?」 「当然商談もするんだよな」 「まあ、そうなるだろうな。従業員は使っているが、俺も事務室にふんぞり返っているだけでなく、ちゃんと現場に出るつもりだ」 「じゃあ、語彙や駆け引きの力は鍛えておいたほうがいいじゃないか。相手をその気にさせるという点では、女性の扱いも商売も同じようなものだろう」 「女性の扱い? 俺はただファン・レタァを」 「女性を竹の花にたとえるような奴はいいから黙って言うとおりにしろ」  宿題を課した翌日、陽光は史緒が貸した本を抱えてやってきた。 「全部読めと言っただろ」 「読んだ。だから返しに来たんだろう」 「え」 「なんだ」 「いや……まさか本当に全部読むとは」  それも一晩で。 「なんだそれは」  口元を不満げに歪めながら陽光は「なんであれ良かれと思ってやってくれたんだ。無碍にはしない」と言いながら、抱えてきた本をおろした。  実に陽光らしい発言だ。  ほんの数日前まで自分は奴のことを疎ましく思っていたはずなのに、今はもう知っている。馬鹿正直で、女性に免疫がなく、けれど妹思いで、不器用に真面目な男。  不快に胸がざわめいた。  良かれと思って、だって。  違う。  俺はお前の弱みを握りたかっただけだ。どうせままならない人生の暇つぶしをしようなんて、つまらないことを考えていただけで―― 「下書きも書いてきた。見てみてくれ」  史緒の煩悶など考えもよらないのだろう。陽光は屈託のない様子でノートを差し出してくる。いまさら見せなくていいとも言えず、受け取って目を落とした。 『白鳥澪様  先日はお返事有難うございました。またお手紙を書いてもいいというお言葉に甘えて、筆を取っています。  級友が、貴女への気持ちを表現するのに参考にしろと、詩集や小説の類を貸してくれました。  しかし、その中に私の求める言葉はありませんでした。  既存の言葉などでは語りきれない。  貴女はそれだけ特別だということです』 「――」 「なにかおかしいか」 「……いや? なるほど、言葉や詩心がないのを逆手に取ったのか。うまいやり方だな」  正直、こいつが丁々発止の商談なんて出来るんだろうか、と思っていた史緒だ。  ――だが、案外いけるのか?  馬鹿正直が一周回って良い方向に働いている、みたいな。  史緒の言葉に安堵したのか、陽光が嬉しそうに目を細めた。 「初めて褒めたな」  いかついばかりの男臭い容貌に、ふっと柔らかさが宿る。  どういうわけかそれが無性に癇に障った。  なんでだ?   史緒は慎重に正体不明の気持ちをなだめすかして、いつもの華族の坊ちゃん然とした仮面をかぶった。 「俺のことなんか書かなくていい。こういう手柄は自分一人のものにしておけ。それより、もっとどう特別なのかを書くことに紙面を使え」  ここまで来たらそれを知りたい。……知りたくないのに知りたい。  書き直し、と陽光を机に追いやった。 「まだだめか……」  ぶつくさとぼやきながらも、陽光は机に向かう。  史緒は寝台の上に乗り、返ってきた本を所在なく手に取った。史緒も恋愛小説を特別好むわけではないが、眠れない夜にはなんでも読む。読書は孤独の最良の友だ。  たまたま手に取ったのは、少年がコケットな女性の魅力に振り回される話だった。  実は女性は少年の父親のことが好きで、自分をからかう女性も父の前ではしおらしくなることに少年は驚く。  道ならぬ恋、それでも止められぬ恋を目の当たりにし、傷つきながらも少年が成長を得る物語だ。  それでも止められぬ恋……か。 「高遠は」  不意に陽光が面を上げる。 「意外に面倒見がいいんだな。……なぜ教室ではあんな態度なんだ? みんなお前を誤解している。それじゃ損だろう」 「誤解もなにも、お高く留まった、生活に不自由のないお気楽な華族のぼんぼん。それが俺だよ」  お前に親切にしてやっているのは、弱みを握るため。途中からは、どこにも居場所のない俺が白鳥澪の姿になったとたんに「特別」なんて、いったいどんなふうに目に映っているのか聞き出すため。  そんな言葉はもちろん隠して応じる。 「高遠、」  簡素な学習机と揃いの椅子の背もたれに手をついて、こちらを振り返る陽光の表情は、ばつが悪そうだった。 「俺もここへ来たばかりの頃は、親父はこういうぼんくらたちに妹たちを差し出そうと思っているのかと腹が立っていたから、その」  思ってなかった、とは言わない馬鹿正直な申告に笑みが漏れてしまう。 「高遠?」 「俺も庶民の成金は体裁を繕わなくていい分好き勝手が出来て、やりたい放題のご身分が羨ましいと思ってたから、あいこだ」 「……そうか」  と呟いてから陽光は再び口元をいびつに引き結んだ。 「そうか?」  あいこなのか? と不満げにしている顔が妙に愉快で、史緒はひとしきり笑った。  ――久し振りだ。七生と一緒にいるとき以外で、こんなに自然に笑ったのは。
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