11.恋の詩集

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11.恋の詩集

 妙に和やかな雰囲気になったせいか、いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。  目覚めると、陽光の奇妙なものを見るような顔がすぐ近くにあって、史緒は声を上げた。 「「うわ!」」  陽光も声を上げ、お互いに飛び退く。 「な、なんだ」  心臓が飛び出しそうなほど胸を叩くのを感じながらかろうじて絞り出すと、陽光は躊躇うように目をそらした。 「いや――魘されていたから」  奇妙なものを見るような顔をしていたのはそのせいか。  他人のいるところで寝てしまうなんて。そんなこと、高遠の家に引き取られてから一度もなかったのに――史緒は寝台の上で膝を抱えたまま、長めの前髪をくしゃりとかき上げた。 「……子供の頃の夢を見てた」  史緒が六歳の頃の話だ。  七生は何度も熱を出し、その度邸中を大騒ぎさせながら、なんとか一歳の誕生日を迎えた頃。  すでに史緒を嫡男として届け出てあり、従子はそれが不満に違いなかったが、七生が無事成長できるかわからない状況で取り下げることを父はよしとしなかった。  史緒もまた実母から引き離されて、愛情のない父の手駒になったにすぎないのだが、身近に生死の境を彷徨う乳児がいれば、どうしたって使用人の同情もそちらに傾く。  宮殿のような高遠の邸の中で、史緒はひとりぼっちだった。  その日は天気が良く、珍しく従子の機嫌も良かった。従子と七生、それに乳母の三人がサンルームで日光浴に興じている。  彼女らの弾むような声を背に、史緒は外へ出た。史緒のことを気に留める者はいなかったから、簡単に出られてしまったのだ。  以前にもそんなふうに外に出て、史緒はひとりの少年と出会っていた。  馬番の一家の息子だ。当時の移動手段はまだ馬車で、敷地内には何頭もの馬が飼育されていた。  少年と邸の和館で落ち合った。和館はもっぱら父の客をもてなすために使われる場所だったから、特別な行事がない限り使用人も配置されない。  長い畳敷きの廊下を滑って遊び、中庭に出て、錦鯉が優雅に身をくねらせる池に配置された石上を跳ね――史緒は足を滑らせた。 そ れから数日の間、史緒は高熱で寝込んだ。  従子も使用人も七生の世話にかかりきりで、史緒が元々風邪気味だったことに気がついていなかったのだ。  浮き沈みする意識の中で聞いたのは、父が従子を罵倒する声と、花瓶の割れる音。 『あれは高遠の嫡男だぞ。万が一のことがあったらどうする』  史緒の身を案じる言葉は、そこになかった。 「熱が下がって外に出られるようになった頃には、馬番の使用人はいなくなってた。一家全員」  誰にも言わずに邸を抜け出して遊びに行ったのは俺。  同じ年頃の子供と遊べるのが嬉しくて、風邪気味だったのを黙っていたのも俺。調子に乗って池に落っこちたのも俺。  なのに罰を受けたのは使用人のほうだった。  家族ごと仕事と住むところを失うことの意味。それはわずか六歳の自分にもわかった。  いつかどこかで遊んでくれたあの少年に出会うことがあったとしても、もう二度と微笑みかけてはくれないだろうことも。 「……庶民とは関わり合いにならないって、そういう」  陽光の呟きで我に返った。  ――しまった。俺はなにをべらべらと。  複雑な事情のある従子のもとを訪ねるのは憚られたのだろう。同じ年頃の子供のいる他の華族家とも交流は稀薄だったから、学院の初等部に入るまで史緒には顔見知りもろくにいなかった。  中等学科、高等学科と進めば、家の事情が分かってくる。そうなればなおさら、手放しに何でも話し合える友など作るのは難しい。  だから今まで、この話は誰にもしたことがない。  きっと一生、しないままだと思っていたのに。 「いや。別に俺は」 「高遠史緒」  いきなり名前を呼ばれた。思い入れなどまったくない名前なのに、陽光のまっすぐな声であらたまって呼ばれたせいなのか、自分だ、と強く思った。  正体不明の落ち着かなさ。その場を動けずにいる史緒とは対照的に、陽光は椅子をおりると、突然板の間に正座した。  文武両道を謳う学院の寮だ。邸のように外国製の絨毯など敷かれているわけもないのに。 「俺はおまえを誤解していた。すまない」  まるで最高の礼をつくすように、惜しげもなく頭を下げる。  それから数分もそうしていただろうか。  やがて「よし」と満足げに呟いた陽光の顔は、やけに清々しかった。なにかの決意さえ感じさせるような眼差しは、あの、こちらがたじろいでしまうほどの真っ直ぐなものだ。史緒が気圧されている間に陽光は立ち上がると、再び机に向かった。  なんだこれ。  なぜ一生誰にも話すまいと思っていたことを、陽光などにべらべらと喋ってしまったのか。  あまつさえ、なぜ話してしまったという後悔よりも、どこかすっきりとした、肩の荷が下りたような気持ちのほうが勝っているのか。  この気持ちをなんと言ったらいいのかわからない。  たぶん、この山積みの詩集の中にもぴったり一分と違うものはないんだろうということだけが、なぜかわかった。
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