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12.特別な時間
わからないまま数日が過ぎ、その度、陽光は「添削してくれ」と下書きを持ってやってきた。
『初めは荒唐無稽な話だと思いましたが、次第にあなた自身に目が行くようになりました』
『先日、二度目を観に行って、確信しました。言葉とは裏腹の仕草、眼差しのひとつひとつに気がつくと、なんとも言えない気持ちが胸のうちに芽生えるのです』
「……いいんじゃないか」
初めの礼また礼の手紙に比べたら、格段の進歩だ。
恋が人を詩人にさせるって、本当なんだな――っていうか二度目を観に行ったのか。いつの間に。
なんだろう。なんだかやけに胸の辺りがざわつく。
「初めは皆目見当もつかなかったが、自分の気持ちを言葉で整理するのにも少し慣れた」
「俺の指導がいいからな」
素直に褒めることはできなくて、ふん、と鼻であしらう。
すると陽光は、機嫌を損ねた様子もなく「そうだな。おまえのおかげだ」と微笑んだ。
「――」
そんなにあっさり受けられてしまうと、次の句がない。戸惑う史緒をよそに、陽光はさらに目を細めた。
「……あのとき、普段は観ない活動を観てみて、本当に良かった。今思えば不思議だが、きっと運命というやつだったんだ」
胸の中の大切ななにかを、慈しむような声音。陽光の声音が穏やかであればあるほど、史緒の胸はかえってざわめいた。
こんなつもりじゃなかった。
気に食わない成金の息子がおろおろする姿を見て、溜飲を下げる。そんな軽い気持ちの悪戯だったはずだ。
けれど少しも楽しくない。
話してしまおうか。自分が〈白鳥澪〉なのだと。
史緒の脳裏には、固い板張りの床に躊躇いもなく正座した陽光の姿がよみがえっていた。
馬番の息子の話を、今まで誰にもしたことがなかった。それは史緒の一番つらい記憶であると同時に、一番大切な記憶でもあるからだ。
どうせ自分では身の振り方も自由にできない暮らしだ。自分にも、他の誰にも何も求めずに生きる。そう決めてしまう前の、つかの間過ごした屈託のない少年の時間。
大切だが苦い。苦いが大切な思い出だ。
華族の級友たちに話したところで、首をかしげられるだけだろう。
『使用人が犯した罪の咎を受けるのは当然だろう?』と。
そんなふうに踏みにじられるのが嫌だった。
けれど陽光は違った。あのとき彼は、史緒の話を受け止めてくれたのだと思う。その上でなにも言わずにただ頭を下げた。
大切であることも、苦いことも、安易に触れられたくないことも、感じ取って。
それに対して俺はどうだ。
胸の内に苦いものが広がる。女優に対する憧憬なんて、陽光にとっては誰にも知られたくないだろう気持ちを、笑いものにしようとして。
実に卑怯だ。相手のことをよく知りもしないで、笑ってもいいと決めてかかるなんて、級友たちといったい何が違うというのか。
話して詫びれば、今ならまだ――
意を決して面を上げた。陽光はまだ澪のことを考えているのか、史緒に向ける眼差しさえやさしい。
そのやさしさがなぜか胸苦しいようで、言葉に詰まった。
いや、だめだ。しっかりしろ高遠史緒。
自分で自分を励まし、再び面を上げたとき、陽光が言った。
「もう自分の気持ちも表現できるようになったし、手紙の指導だが、もういらない。――今まで、世話をかけてすまなかったな」
張りのある声が教室に響いている。角張った文字の印象に反して、陽光の発音はなめらかだ。
気がつくと、昨日、あの声で紡がれた言葉のことを考えている。
『今思えば不思議だが、きっと運命というやつだったんだ』
もう指導はいらないということは、俺には見せずに手紙を書くということだろう。いや、本来ならそういうものだ。本当に真剣な思いの丈を載せた手紙を、他人になど見せるものではない。
それだけ陽光は白鳥澪に真剣に思いを寄せている?
俺には頼らずその思いを伝えようとしている?
相手は女優だぞ。直接会ったのは一度きりの――いや、そもそも澪は俺で、澪が俺で――?
「――遠、高遠!」
級友の声で我に返る。教壇の上では英吉利人教師が口ひげをしごきながら険しい顔をしていた。
しまった。呼ばれていた?
「申し訳ありません」
慌てて立ち上がると、教師はわずかに肩を竦めて「続きを、ミスタ高遠」と促した。
「はい。――」
返事をしたはいいが、再度焦る。続きとは、いったいどこだったのか――教師が形のいい眉をわざとらしく上下させた。
「恋人のことでも考えていたなら、お邪魔してすみません。ですが、今は授業中ですので、少しだけ私と級友たちのために時間を割いてくださると嬉しいのですが」
「こっ、」
恋人だなんて、そんな。
「冗談です。――五十七ページから」
「珍しいな、高遠。おまえがあんなヘマするなんて」
「……俺もそう思う」
たぶん、覚えている限り初めてだ。相変わらず分断された教室の庶民の島からは、ひそひそとこちらを嘲り笑う声がする。
取り巻きの一人が肩に触れた。
「抜け出して、憂さ晴らしでもいくか?」
潜めた声で耳打ちする。
「ダンスホールはどうだ? なに、門限なら下級生にうまくやらせればいいさ」
「そうだな……」
どうせ部屋にいても、もう陽光は訪ねて来ないのだ。
半ばその気になったとき、島の中から立ち上がった者がいた。
「高遠」
他ならぬ陽光だ。
ファン・レタァ講座を開催して以降も、教室で親しく会話したことはなかったのに。
陽光は教室のざわめきなど気にも留めない様子で「高遠」と再び声をかけてくる。――まるで、旧来の友人であるかのような気安さで。
「週末家に帰っただろう。ちょうど商品の見本が色々届いていて――弟君にどうかと思って持ってきた。フランスのボンボンとかいうものなんだが、いつもの礼だ」
教室がざわめく。集中する視線で空気が震えたように感じる。ささやきは漣のように広がった。
〈今、いつもって言ったよな。奴ら、親しかったのか? 礼って、どういう〉
〈高遠の弟って言ったら――本当の息子のほうか〉
その声は、華族の中から聞こえた。哀れみと好奇の色を隠しもしないで。
こうなることがわかっているから、自分から家の話をすることはずっと避けてきたのに――口の中に、ひどく苦い味が広がっていく。
わかっている。陽光に他意などないのだ。「おまえを誤解していた。すまない」とどこまでもまっすぐな気質で。
まっすぐすぎるがゆえにこのタイミングで話しかけることも躊躇しないのだろう。
眩しい。
その眩しさが無性に癇に障った。
「……なんの真似だ?」
なにを言ったらいいのかわからないと思っていたのに、唇は勝手に言葉を紡いだ。いらだちを隠しもせずに。
「高遠?」
陽光が驚いたように目を見開いて瞬く。厚意をこんな形で返されると思っていないのだろう。成金と陰口を叩かれながら、それでも妹たちのために頑張れるような男は。
「本を借りたり、熱心に教えてもらった礼だ。そんなにかしこまったものでも」
あっさりと口にする様子がまた気に障った。気に障って――わかってしまった。
自分が、あの時間をなにか特別なものだと思っていたことを。
家にも学校にも本当の居場所などなかった。
そのどちらの顔でもない「白鳥澪」になるのは本当は気分が良かった。
澪としてパーラーに行ったとき、まっすぐに自分を見つめた陽光の眼差し――家の事情も、望まぬ対立もない、ただひとりの人間として大事に思われているあの眼差しが心地よかった。
弱みを握りたいなんて、嘘だ。
もう一度あの眼差しを、称賛を受けてみたかった。熱く甘い言葉を引き出したかった。
誰かから。
気がついてしまったら、もう、陽光の顔をまともに見ることは出来なかった。真っ暗な目眩の中で、心と裏腹な言葉だけが口をつく。
「――おまえの世話なんかした覚えはない。庶民から施しなんか受けない」
「――」
「おい、貴様! 今度という今度は許さんぞ!」
陽光の仲間がいきりたち、後ろから史緒の肩を強く掴んだ。
振り払うようにして逃げると、向かい側にいた陽光にぶつかる。
あ、という小さい呟きが聞こえたときには、フランス製だという美しいボンボンの瓶が足元に落ち、中身もろとも砕け散っていた。
「――」
せっかく、持ってきてくれたのに。
咄嗟に見上げた陽光の瞳は、困惑に大きく見開かれていた。
怒ったよな? 怒ってるはずだ。
それを確かめたい気持ちと、こんなことをするつもりじゃなかったと叫ぶ心がばらばらだった。
今この瞬間ここにいるのは伯爵家の嫡男でもなく、白鳥澪でもない。強いていうなら、高遠の家に引き取られたばかりの頃。
こんな大きなお邸。沢山の使用人。なのに本当の意味で自分を見ている人間などひとりもいないことに気がついて膝を抱えている、名前も奪われた子供の自分だった。
『なんとも言えない気持ちが芽生えるのです』
不器用だが生真面目な文字。もうすっかり覚えてしまったその筆致が、まなうらにちらつく。
史緒は陽光を突き飛ばすと、教室を飛び出した。
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