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そんなこととは知りもしない陽光の、いつもの礼節を取り戻した声がする。
「そういえば、手紙の使いをお願いしてしまって、申し訳ありませんでした」
「手紙?」
しまった。手紙のことを青孤は知らない。
どうする? 澪として出て行って、なんとか取り繕うか?
なら、化粧を直さなくちゃ。
撮影に集中出来なかったのは陽光とのことが主な原因だったが、暑かったからというのもまた事実だった。
汗をかいたし、休憩に入ってから顔を無意識で拭ってしまった気もする。自分が今、ちゃんと白鳥澪になれているのか不安だ。
史緒は控え室をそっと抜け出すと、広い敷地の一角に建てられた撮影スタジオにとって返した。撮影は佳境とあって、様々な機材が廊下に出しっぱなしになっている。
「いて」
なにかに躓いて、とても弟のため健気に演じる令嬢とは思えぬ声が出てしまったが、構ってはいられない。ぶつけた臑をさすりつつ化粧室に飛び込んだ。
休憩中だから当然といえば当然なのだが、あてにしていた有澤の姿はない。さすがに化粧のことまでよくわからないから、適当な瓶を開けてはにおいを嗅いだりしているうちに、ひとつをとり落としてしまった。
「おい!」
拾い上げようとした手が怒号に止まる。
「すみま――」
違和感に言葉が止まった。ここは密室だ。誰かに自分の姿が見えるわけもない。
なんだ、と安堵したのもつかの間、ドアの外が騒がしくなった。
「火事だ! フィルムが燃えてる!」
――え?
「早く逃げろ!」
「おい、フィルムの――――あいつか、まあ犯人捜しはあとだ、とにかく早く外に出ろ!」
青孤が叫んでいる。どうやら本当に大ごとのようだ。もう化粧どころではない。ひとまず部屋を出ようと真鍮のドアノブを握った。
開かない。
「――――?」
もう一度、今度は落ち着いてゆっくり回してみる。ノブは確かに回るのだが、それ以上押し開けることが出来なかった。
なにか挟まってる――?
「あ」
記憶をたぐって思わず声が出た。ここへ駆け込むとき、たしか何かに躓いて――それで。
偶然にも機材の一部が筋交いのようにぴったりドアにはまってしまったんだろう。
クソ、と己に吐き捨てながら、史緒はドアを叩いた。
「青孤さん! 誰か! 誰かいないか! ここを開けて」
反応はない。青弧の声が聞こえてからもう数分は経っている。もう全員避難してしまったんだろうか。
だとしたら、自分でなんとかしなくちゃ――化粧室は主有澤の性格を反映してか、整然と片付いていて、余計なものがない。
唯一使えそうな椅子を持ち上げて、史緒は思い切りドアに叩きつけた。
「……ッ!」
痛みと衝撃に堪えながら何度もドアにぶつける。先に限界を迎えたのは椅子のほうだった。木片になった椅子を投げ捨て、もう一脚を同じように叩きつける。その頃にはもう、ドアの隙間から入り込んだ煙が室内に充満していた。
二脚めの椅子も無残に砕けたとき、わずかにドアの手ごたえが変わった。
――いける。
煙にむせながら一旦部屋の中央まで戻る。反動をつけて思い切りドアに体当たりをくらわした。
痛み。そして吸い込まれるような感覚。肩透かしをくらったような浮遊感のあと、体は廊下に叩きつけられていた。
「いたた……まあ、狭い部屋で蒸し焼きになるのだけは免れて良かっ……」
安堵して体を起こした史緒の目に映ったのは、一面の火の海だった。
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