16.船出

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16.船出

 桟橋を行き来する見送りの人々を史緒はうつろに見下ろしていた。  貨物の上げ下ろしの為の引き込み線。その二本の線の間を荷揚げの人足が行き来し、西洋人のご婦人がさす、淡い色のパラソルがくるりと回る。うんざりするような青空。 「史緒! うろちょろするな」  うろちょろはしていませんけど。そんな弁解はもちろんしない。無駄だから。  あの夜、史緒の居場所を高遠家に知らせたのは、小川家の家令だった。  青孤は不手際を詫びてくれたが、さすがにスタヂオの大半を焼き、あわや母屋にまで延焼しようかという火事を受けて、家令としては連絡しないわけにもいかなかったのだろう。  小川家に乗り込んできた父は、着替えもそこそこに史緒を高遠家の車に押し込んだ。陽光との関係に気づかれていないようなのは幸いだったが、それから学校にさえ出して貰えず、家令たちとの会議で決まった沙汰は――「英吉利留学」。  今回の件のほとぼりを冷ますため、かつ、多少羽目を外しても、帝都にいる令嬢たちの耳に届かないという、父にしてみれば「温情措置」だそうだ。  ――要はこれ以上〈商品価値〉が落ちないようにってことだろ。  いっそ廃嫡してくれればいいのに。結局どこまでいっても駒として飼い殺しにするつもりなのだ。  陽光とは、あれきり会えていなかった。  学校に行かせてもらえないどころか、庭にも出して貰えない。むしろ俺が令嬢だったかな、くらいの監視体制だったのだ。  同じ邸内にいるはずの七生にさえ「悪影響が」と会わせてもらえず、電話や手紙ももちろん禁止。仮に陽光からそれらがあったとしても、伝えてはもらえなかっただろう。  そうこうしているうちに準備は進み、迎えた今日が出港の日。  旧態依然とした考えはいつまで経っても変えようとしないのに、こんなときの手はずを整えるのは恐ろしく早い。  苦笑も海風にさらわれる。自分の人生なんて、こんなものだ。  見おろす桟橋の人々は小さく見えるが、この広い海の上ではこの客船だって小さいに違いなく、さらに自分ときたらもっともっとちっぽけで、無力。 「旦那さま、そろそろ」 「史緒。見張りをつけるからな。好き勝手が出来ると思うなよ」  駄目押しで言い捨て、父は下船していく。もうもうと吐き出される蒸気はいよいよ増し、タラップが収納された。  船が護岸を離れる。まるでひとつだったものが引き裂かれていくような動きを見つめているうちに、こんなものだと思っていた心が不意に悲鳴を上げた。 「――いやだ」  駄々をこねる子供のような声がこぼれ、離れていく岸の景色はじわりとにじむ。  だって俺はまだちゃんと伝えていない。陽光と過ごしたわずかな日々が、とてつもなく楽しかったと。  俺の人生も、おまえに会って変わったのだと。  猛烈な後悔が押し寄せて鉄柵を強く握った。そうでもしていないと叫びだしてしまいそうだった。  嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――!  でももう、どうすることも出来ない。  ――ん?  そのとき、滲む視界に、乱暴な運転でやってくるフォードが見えた。  高遠の車はまだ港にある。不良息子が手も足も出ない大洋に送り出されたのを見届けて、これから帰ろうというところだろう。一方新たにやってきたフォードは、完全に停車するのも待たずにドアが開く。危ない、と思う間もなく、今、一番求めていた男の声が海風を切り裂いた。 「高遠!」 「――陸奥?」  嘘だろう? なぜ、あいつがここに? 「行くな!」 「いや、行くなって……」  もう船は岸を離れて、引き返すことは不可能だ。  ――船は。 「――史緒様?」  不穏な気配を察知したのか、目付の使用人が声をかけてくる。史緒は帽子と上着を脱ぐと彼に手渡した。 「ごめん。くれぐれもおまえの落ち度ではないから」  誰のせいでもない。誰のためでもない。  ただ魂が叫ぶのだからしょうがない。  もう諦めたくない。あの男を手にれたいのだと。 「史緒様!?」  悲鳴のような声を背後に手すりを乗り越え、身を躍らせた。  さすがに水練合宿の櫓よりはるかに高い――悠長にそんなことを考えていられたのは一瞬で、叩きつけられた衝撃は相当なものだった。  それでも、自分が立てた飛沫の白い泡が立ち上るのに励まされるように、上へ上へと目指した。光あるほうへと。  水面に顔を出すと、集まった野次馬の中ではっきりと陽光の顔だけが見えた。その一点のみを目指して水をかこうとしたとき、水柱が上がった。他ならぬ陽光が身を踊らせたのだ。 「ばか、おまえまで」  俺が行くから、わざわざ飛び込むこともないのに――そう案じる反面、後先を忘れて求められることが嬉しかった。  抱き合うようにして水面に浮かび上がると、陽光は告げる。 「今父上にうちの商会からの援助を申し込んできた。引き換えに、おまえの留学を取りやめるようにと」 「は?」 「大名商売で失敗していたらしいが、見直せば収益が出る見込みは十分にあるとわかった。細かく調べ上げて親父を説得するのに少し時間がかかってぎりぎりになったが。うちは箔がつく。そっちも損じゃない。おまえも、弟君も、俺の妹たちも望まぬ結婚などしなくていいんだ」  矢継ぎ早に告げられる言葉がうまく飲み込めなかった。望まぬ結婚をしなくていい?    こいつと――離れなくていい? 「――なんで、そこまで」  混乱の中でかろうじて口にすると、陽光は「言わなきゃわからないのか?」と不満げに口元を歪めた。だがそれもすぐに、穏やかな笑みに変わる。 「華族なんてどいつもこいつもいけすかないと思っていたのに、おまえが俺を作り替えたんだ。おまえは……特別だ」  だから行くな。そう射抜くように告げて見つめてくる瞳の中に、自分だけが映り込んでいる。  無駄だと思っていた。生まれに、運命にあらがったりすることは。  でも今は、この新しく動き始めた運命に、身を委ねてみたい。  陽光の瞳の中の自分がぐっと近づいてきて、史緒は目を閉じた。自分では見えない、陽光にだけ見えるという星が、今もそこにあるだろうか――そんなことを考えながら、口づけを交わす。  船が港を離れる汽笛が、まるで、祝福するかのように鳴り響いていた。                                     〈了〉
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