2.大切なもの

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2.大切なもの

 修礼院は全寮制だが、週末は一時帰宅が可能だ。追いついてきて「憂さ晴らしにそこらでカフェーでも」という級友の誘いを断って、史緒は自宅へ向かった。  途中立ち寄った店の包みを手に、螺旋を描いた中央階段を軽やかに上る。目当ての部屋をノックすると、名乗る前から勢いよくドアが開いた。 「兄さん!」 「七生(ななお)、起きてていいのか」  五歳年下の弟七生は体が弱く、宮内庁内で華族のすべてを監督する組織、宗秩寮(そうちつりょう)の許可を得て在宅で勉強している。  それでもときどき高熱を出して、家庭教師に帰ってもらうことも度々あるのだが、今日は調子がいいようだ。 「はい! 兄さんが帰ってくるって言うから、僕もう楽しみで!」  壁紙の柔らかなミントグリーンが七生に似合いの部屋に招き入れられる。植物のモチーフが美しい飴色の小テーブルに着くと、史緒は包みをほどいた。 「ほら、お土産だ」 「なんです? この薄くてまあるい……」 「ゴーフルって言うらしい。まだ市販されていないけど、銀座の店で職人が試作してるって噂に聞いて、特別に()けてもらった。ほら、こうして缶に入っているから、少しずつ好きなときに食べられるだろ。カルルス煎餅が元になってるから、口当たりも軽い」  一度に多くを食べられない弟のために、帝都内の菓子情報には常に気を配っている史緒だ。  高遠家の事情は、少し複雑だった。  元はと言えば、七生の母であり高遠家の正妻である従子(よりこ)不育の質(ふいく たち)であったことに始まる。  何度か流産をくり返し、生まれた子も早世してしまうとあって、高遠家の存続を危ぶんだ当主は、愛人に生ませていた子を引き取った。それが史緒だ。  史緒という男女どちらともとれる名は、引き取られてからつけられた。男児は早世しやすい。だから男か女か神様にわからないようにと。  元の名前も、本当の母のこともほとんど記憶にない。使用人たちの噂話で聞くところによると、史緒が引き取られるとすぐ病を得てなくなったそうだ。  ところで、お家存続の危機という重責から解放されたのが逆に良かったのだろうか。  史緒を正式に嫡男と届け出て一年後、従子に男子が産まれた。それが七生だ。  中性的な名はやはり、神様に男児をとられないよう、人より七倍長生きするようにと願いを込めて従子が名付けた。 「僕のために、わざわざ……」  七生は英字の打ち出された丸い缶を指でなぞり、なにか言いたげな様子で長いまつげをかすかに震わせる。が、すぐに明るい笑顔を作った。 「ひとつ、食べてみてもいいですか?」 「もちろん。おまえのために()ってきたんだから」  七生がどんな言葉を無理に笑顔に変えたのか、史緒にはちゃんとわかっている。 『ごめんなさい』だ。  だからなにも気づかないふりで頭を撫でると、七生はくすぐったそうに首をすくめた。  庶民の連中は知らない。すべての華族に政府から高額の俸禄があるわけではない。  それでいて体面を保つことは要求される。なにかと出費が多いのだ。  投資の才覚があって事業がうまくいっていればまだいいが、父にそんなものはなかった。  彼の目下の計画と言えば、充分に潤っている他家の令嬢と史緒の婚姻をさっさとまとめてしまうことだった。  多額の結納金と事業の提携、そして華族院入り。ゆくゆくは侯爵への陞爵(しょうしゃく)が真の狙い。  本当なら維新後の授爵の際にそうあるべきだったものが、敵方だったためひとつ下げられたのが気に食わないと高遠家の人間は未だに思っている。  ――ばかばかしい。  右へ左へと勝手にやりとりされるこんな生き様が、嬉しいわけはない。  だいたい、お相手候補に上がる令嬢はみな幼すぎるか歳上すぎるか。差し出す方も当人同士の気持ちなどお構いなしなのだ。  動物の繁殖でもするかのようにやりとりされることが続いたからだろうか。    史緒は十八の今までまったく異性に興味が持てなかった。  華族仲間には、どうせ幸福な結婚など望まないと割り切って、学生のうちは女学生をひっかけることに精を出す者もいる。時折誘われるが、史緒はすべて断っていた。  自分がこんなに生きることに倦いているのに、子を成す意味など見出せない。  真の愛情など、この世のどこにもない。  けれど自分がすべてを擲って出奔などしようものなら、息苦しい役割は七生に回ってしまう。それは避けたかった。  恨むべきはこんな星回りに生まれついてしまったこと。過去の名声を捨てきれず、お家存続と陞爵に拘泥している横暴な父。  だから兄弟ふたりは仲が良かった。見た目こそまだ幼さの残る七生だが、賢い子だ。謝っても史緒が困るだけだとわかっているから、いつも歳に不似合いな哀しさで飲み込む。 「なにか飲み物があったほうがいいかもしれないな。紅茶でも」  持ってこさせようか、と口にしかけたところでドアが開いた。  まだ呼び鈴も鳴らしていないのに、ずいぶんと気の利く使用人が―― 「七生さん!」  穏やかな兄弟の時間は、悲鳴のような声で引き裂かれた。 「お母様」 「先生が帰られたら、横になっていなさいとお母様は言いましたよね」 「でもお母様。僕、本当にそんなに具合は……」 「悪くなってからでは遅いのですよ! さあ、お母様をこれ以上心配させないで。あなたはお母様のすべてなんですから」  従子は史緒のほうをちらりとも見ようとはせず、七生を寝室へと追い立てる。七生が立ち上がった拍子に、テーブルの上のゴーフルの缶が床に落ちた。 「あ……」  ばらばらと無残に散らばったゴーフルもかまわず踏みつけて、従子は七生を寝室へ閉じ込めて戻る。割れた月のような破片を前に立ち尽くす史緒に向かって、言い放った。 「あの子に食べさせるものは、お医者様と料理長と私できちんと相談して決めているんです。余計な真似はしないで」  本当なら七生と口をきくのも禁じたいくらいだ、ときつくこちらを見据える従子の目が語っていた。 名前を奪われて、自由な結婚も出来ず、弟と話をすることさえ許されない。  ――こんな生活が羨ましいか? 陸奥陽光。  昼の学校でのやりとりを思い返して自嘲が口の端に浮かんだそのとき、開け放たれたままだった戸口で使用人がおずおずと告げた。 「あの、史緒さま、お電話です。小川伯爵さまから」 「清悟(せいご)さんから?」  あまり嬉しくはない相手だ。だが、従子に睨み付けられているこの状況よりはましだろう。 「すぐ行く」
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