3.もうひとりの自分

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3.もうひとりの自分

 新宿から京王電鉄に乗って目的の駅に出、街道に沿って半丁ほど歩く。  すると右手に瀟洒な鉄の門が現れる。  常駐している門番に来意を告げると、恭しく鉄扉は開かれた。森のような木立に囲まれた砂利道を行くと、小川家の邸がやっと見えてくる。  立派な車寄せを持つ玄関には、本来なら家のフォードで運転手に送らせた方が楽なこの道のりをわざわざひとりでやってきた理由である看板が、まだ墨の文字も黒々と掲げられていた。 〈小川活動研究所〉  今日は天気がいいから、早速撮影準備中なのだろう。花模様のステンドグラスで彩られた玄関ドアは開け放たれていて、忙しく人が立ち働いているのが見えた。 「フィルムの扱いにはくれぐれも注意しろよ! おい、新入りによく教えてやってくれ。そいつはすーぐ火が出るんだってな」  着崩したシャツにベストという出で立ちで指示を飛ばしている男は、史緒の姿に気がつくとにやりと愉快そうに笑みを向けた。 「やあ、来たなヒロイン」 「……やめてくださいよ」  彼、小川清悟は小川伯爵家の三男で、この邸の主、そして映画監督だ。ちなみに監督のときに名乗る名前は本名をもじって小川青孤(せいこ)という。  小川家は五摂家にも近い、華族の中でもとりわけ裕福な一族だ。  そしてそんな名家でありながら、リベラルな家風で知られてもいる。  どこか腫れ物に触るような扱いばかりされてきた史緒に、清悟は子供の頃から親しく話しかけてくれた。  彼は三男坊の恵まれた境遇だけでなく、要領の良さと賢さも持っていた。  父が海軍将校であるのをいいことに、海軍に協力を取り付け、まずは海軍の宣伝映画を撮ったのである。  完成披露試写会は有名弁士と楽団を雇い、各界の要人、軍関係者を招いて行われた。  自分たちの所属する組織を華々しく、しかも最新のキネマの手法で持ち上げられて、悪い気がするわけはない。その場で出資者も集め、あれよという間に立ち上げたのがこの小川活動研究所だった。  史緒が「ちょっと奥へ」と呼ばれたのもそのときのことだ。化粧だ鬘だと施され、気づいたらカメラの前に立っていた。 「いやあ、女優がどこも足りてなくてね。銀幕に見入る君の横顔があんまり美しかったものだから試しにと思ったんだが……想像以上の出来だ。頼む。一本だけ出演してくれないか。なに、声は弁士があとで当てるんだから、わかりゃしない」  最近まで国産の映画といえば女役も歌舞伎出身の女形がやるものだった。やがて本物の女優を起用するようになったが、そもそも活動といえば巷ではまだまだ「よからぬ連中が関わるもの」。娘がそんな世界に進みたいと言い出したら、親はまず止める。  史緒も、観るのは好んでも、自分が出るなんて論外だ。しかも女装で。 当然抵抗した史緒に、青孤は耳打ちした。 「出演料も弾むよ」  そもそも華族は自ら金を払って買い物をすることも「卑しい」とされている。必要な物は使用人に一言命じておけば翌日にはきちんと揃えられているが、それは逆に言うと、購買した物はすべて知られてしまうということでもあった。  令嬢ではなく男子。学友たちだけで甘味屋に立ち寄ることもあるだろうと、小遣い的なものも多少は持たされているが、それだって家令初めとする家計を預かる使用人が毎月会議を開いて費用を決める支給制だ。湯水のように好き勝手に使えるわけではない。  当然、史緒の心はぐらぐらと揺れた。  出演料。  その金があったら、七生にもっと菓子や好きな本を買ってやれる――  そんな史緒の迷いを見逃さなかったのだろう。清孤は手帳を取り出すと、万年筆でさらさらと書き付けた。 「本来ならこのくらいだが、今回はさらに上乗せでこうだ。どうかな?」  ――というわけで、まんまと女優として銀幕デビューしてしまった史緒だった。  とはいえ、小川活動研究所は無名の会社だ。  出来上がったフィルムがすぐに売れるとは限らない。  海軍映画が絶賛されたのはしょせん身内だったからで、気まぐれな華族のお遊びなんて相手にされることもなく研究所はいつの間にか解散てなことになるに違いない。  そう踏んで、女装姿を撮影されたことなどすっかり忘れていたところへかかってきたのが昨日の電話だった。「あのフィルム、売れたよ。ついては新作を考えているんだが、ともかく話だけでも聞きに来てくれ」と。 「欧州で戦争が始まったろう。その関係で洋画のフィルムが回ってこなくなったんだ。怪我の功名って奴だな」 「それを言うなら漁夫の利だね。――少し口を開いて。よし。これでいい」  満足げな呟きに改めて鏡を見ると、知らない女が大きく目を見開いてこちらを見ていた。  瞬きすれば、鏡の中の女も同じようにするから、また面食らってしまう。  頭ではそこにいるのが自分が化粧した姿だとわかっているのだが、心が追いついてこなかった。  そんな史緒の様子に有澤が笑みを漏らす。彼は元女形で、自身も活動にも出演していたが、女性を使う時代になり、演出・化粧係に転身したという経歴の持ち主だ。 「元が綺麗な顔立ちだから、最低限のことで化粧がきまって助かるよ」 「まったく。おい、随分ぽーっとしてるな。自分で自分に恋するなよ?」  青孤がからかう。「そうなったら面白い」と言っているようにしか聞こえない響きで。 「そんなんじゃないですけど」 「けど?」 「……別人になったみたいだな、と」  初回はわけもわからないまま巻き込まれたから、化粧された自分の顔をじっくり見る間もなかった。  だがこうして改めて見てみると、驚きと奇妙な感覚――開放感のようなものがある。  前作の撮影のとき便宜上青孤が決めた名前は史緒から取ってみお、それに漢字と釣り合いそうな名字を適当にくっつけた〈白鳥澪〉というのだが、本当にそんな女が存在していそうな。  結局今日も押し切られて演じることになったのはモダンな断髪の役だから、鬘の上にさらにクロシェット帽を被り、すとんとしたシルエットのワンピースだ。  大きく開いた襟ぐりに、真珠の長い三連ネックレス。それにかかとの高い華奢な靴。絹の手袋をした手には、小さなバッグから取り出す煙草でも似合いそうな。 「自分の意思で自由にどこにでも行けそうな女性だな、と」  そう、自分とは正反対の生き様を手にしてそうな。 「監督! ちょっといいですか」  スタッフから声がかかり、青孤が化粧室をあとにする。化粧道具を片付けながら有澤が言った。 「こちらから頼んでおいてこんなことを言えた義理ではないんだけど、あまり役にのめり込みすぎないようにね」 「まさか」  一日従子のいる邸にいるのも気詰まりで出てきたが、本当にこれっきりにするつもりだ。のめりこむなんて、あり得ない。
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