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4.最悪
「このあとちょっと銀座まで出るぞ」
撮影終わり、青孤がそんなことを言い出した。
「フィルムを買ってくれたハコに挨拶だ。ついでに上映してる様子を見てこようじゃないか」
「嫌ですよ」
演じる間はそこそこ楽しさもあるが、客観的に観るのはまた別の話だ。
が、自由人青孤はもちろん人の意見など聞く耳を持たない。結局、衣装のまま小川家の車に押し込められた。
皇居の堀を左手に、帝国ホテルと劇場を右手に。煉瓦の西洋建築が立ち並ぶ町並みの中を通り抜け、銀座にたどり着く。
金春館は本来洋画を専門とする上映館だが、先刻青孤が言っていたような理由で新しい作品を探していたらしい。
「とはいえ面白いか否かを決めるのは観客だからな」
自由人青孤も、そこは人並みに気になるらしい。
車を降りると、物陰に潜んで館の入り口を観察する。ちょうど前の回の上映が跳ねる時間に当たったらしく、ぞろぞろと観客が通りに出てきた。史緒は念のため帽子を目深に被り直すと、青孤の背に身を隠す。
「筋は酷いもんだが女優は良かったな。見慣れない顔だが」
「ああ、自然だった。我が国の女優はまだまだ歌舞伎寄りの大げさな演技で、それが女優の顔と合っていないときがあるよな」
「しかしそれは監督や演出家が悪いんだろう。舞台の延長でなく真の国産キネマが生れるためには根本的な――」
「いっちょまえのことを言うねえ」
蘊蓄を垂れ流しながら彼らが通り過ぎると、青孤は苦笑交じりに漏らした。
「だが、まあまあといったところじゃないか。演技が自然だとさ」
「生憎僕は男性ですけどね」
「子供の頃から〈高遠の嫡男〉という演技を強いられているようなものですからね」とは言わずに短く応える。
「いや、カメラを覗いていても思うよ。男とか女とかじゃなく、実にこう、いいんだな。惹きつけられるというか……」
「いくら持ち上げてもこれっきりです。さあ、評判も聞けたことだし、帰してください」
「いやいや、まだ支配人に挨拶しないと。もちろん、黙ってにこにこしてくれてるだけでいいから。どうしてもとなれば病気で声が出ないから筆談ということにしよう」
「さすがに近くで見たらばれますよ……!」
青孤を引き留めようと腕を引っ張ると、道行く人がちらっと胡乱げに視線を投げかける。
ただでさえ男女が往来で問答しているのは目立つのに、大声を出せば男だと感づかれてしまうだろう。躊躇った隙に引きずっていかれた。
「ちょっと、青孤さん! 青孤さんてば」
慣れない踵のある靴は、撮影の短い間ならともかく、街を歩くのには適さない。
映画館の前で「ほら、行くぞ。腹をきめろ」と手を離された瞬間、史緒は反動で大きくよろめいた。
「ちょ、――」
運の悪いことに、上映が終わったというのに熱心にポスターに見入っている客がいる。客も不意の出来事で受け身も取れなかったのだろう。
そのままふたりもつれ合うようにして派手に尻餅をついた。
「……うわっ!」
史緒が完全に下敷きになっているのに気がついた客が、慌てて飛び退く。女を下敷きにしてしまったと思ったのだろう。
すみません、という言葉は紡げなかった。
「す、すみません……!」
先にそう言って手を差し伸べてきたのは、犬猿の仲、陸奥陽光だったから。
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