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5.あなたは特別
終りだ。
なにもかも。
史緒は想像する。
教室に入ったとたん、目を逸らす級友たちを。そうして一旦目を逸らしながら、ちらちらとこちらをうかがって囁かれる陰口を。
〈あいつ、女の格好をしてたそうだ。化粧までして〉
〈はあ? 正気の沙汰じゃないな。やはり生まれが――〉
あるいは父と従子なら。
〈何不自由なくさせてやってるのに、高遠家の名に恥を塗りおって――〉
〈なんてこと。やっぱり七生さんに近づけないようにして正解だったわ〉
地獄だ。
「――申し訳ありません……! 大丈夫ですか? お怪我は」
そんな声が、史緒を奈落の底から連れ戻した。そして面食らった。気遣わしげな声は、どうやら心底心配しているようだ。
――気づかれて、ない?
史緒を助け起こしながら、青孤も陽光の様子に気がついたようで、大胆にも訊ねる。
「こちらの活動をごらんになったんですね。随分熱心に見つめていましたが、どうでしたか」
やさしく訊ねたのに、陽光はまるで最後通告でも受けたように言葉を詰まらせた。長い沈黙を、それでも青孤がにこにことして待っていると、学生帽のつばを掴んで顔を隠すようにしながら、やっと声を絞り出す。
「その……とても、良かったです」
――照れてる?
学校ではいつも「軽薄な華族の子弟になど負けん!」とばかりの仏頂面しか見せないというのに、おどおどと、気の毒なくらい視線をさまよわせている姿が面白い。
――〈俺〉を投げ飛ばしたときは、いかにも投げやりにしか手を貸さなかったくせに。
いかにも女慣れしていない様子に、いたずら心が首をもたげた。
顔を上げた瞬間を見計らって、にっこり微笑みかけてやる。
「――!」
瞬間、陽光は今にも窒息死してしまいそうな顔で、頬を真っ赤に染めた。
面白いことになったな。
調子に乗った史緒は、青孤に耳打ちして、陽光をパーラーに誘った。
化粧品メーカーが手がけるその店は可愛らしい内装が人気で、今日も女性客があふれている。
一方、名物のアイスクリィムソォダを前にした陽光は、がちがちに緊張しているらしい。いつも以上にきつく引き結んだ口元に、太い眉毛もいつも以上にぴんと強ばらせる姿は、男らしいを通り越してもはや鬼瓦の様相だ。
〈怪奇! 震える鬼瓦〉って感じだな……
吹き出したいのをぐっとこらえる。なにしろ咄嗟の設定で、史緒、もとい白鳥澪は
「自身も病気で声の出ない身ながら、病気の弟のために女優になって生活を支えている」
のだ。
いくらなんでも絵に描いたような嘘だな、と思ったが、筆談でそう告げると、陽光ははっと射貫かれたような面持ちで胸を押さえた。
ちょろいがすぎる。
「陸奥くんは活動はよく観るのかな?」
青孤の問いに、陽光は詰め襟の膝の上できゅっと拳を握った。
「いえ、自分は、普段は一切……活動は不良の観るものですから」
ふりょうって。
世間ではまだまだそんなイメージを持つ者がいるとは知っていたが、実際に口にする奴に初めて会った。しかも関係者の前で。
自分の発言が馬鹿正直すぎたと遅れて気がついたのだろう。いまさら気まずくなったのか、陽光はソォダのグラスを力強く鷲づかみにすると、一息に煽った。
あ、そんなにいっぺんに――
案の定、怪奇の鬼瓦は「げほっ」と盛大にむせかえった。
「す、すみません、……」
なおもげほげほとむせながら詫びるその鼻の頭には、アイスクリィムがちょんとついてしまっている。史緒はテーブルの下で自分の太腿を思い切りつねった。
庶民の出なのに今や学園一の文武両道、堅物の鬼瓦が絵に描いたようにうろたえている。
青孤も、憤るどころか一層興味を持ったようだ。珈琲に口をつけながら、愉快そうに訊ねる。
「ほう、じゃあ、なんでまた僕らの作品だけ観てみようという気になられたんです?」
「考え事をしながら歩いていたら、たまたまポスターが目にとまって……」
ポスター。それは青孤が肝いりで作らせたものだった。
大きな写真には大きな乾板が必要で、当然その分金もかかるが、後進の会社だから目立たねば、と張り込んだらしい。
勿論映っているのは主演の男優、そして白鳥澪。
酷いもんだ、と観客が話していた筋はといえば、島の少女が恋する相手の為に泳いで海を渡ろうとする。失敗をくり返すうち女海賊になる、というものだ。
本当に酷い。
きっと買い手もつかないだろうと思ったんだがな。
だからこそ最初で最後のつもりで協力したのだ。
「こんなことを言い出すのはおかしいと思われるでしょうが――」
もう充分おかしいから大丈夫ですよ、とはもちろん言わない。
「なんだか、この女性に拭いがたい孤独のようなものを感じたんです。海賊になってからも、強気な中にきどき見せる物憂げな顔が、放っておけなくなるようで……」
え? という声を、史緒はぎりぎりでこらえた。
あまりに酷い筋だが、引き受けたからにはそれなりのものにしようと取り組んだ結果、史緒はこの少女に己を重ねることにした。
結局、彼女は孤独なのだ。
理解者のいない島。そこに現れた好青年。けれど本土へ帰ってしまった彼を追いかける。女海賊になって島は出たけれど、なお満たされないものは残る。人はずっと孤独だ――荒唐無稽な冒険活劇を、自分がそんな気持ちで演じているとは誰も気づかないだろうと思っていたのに。
むせも収まって、鼻の頭のアイスクリィムも拭った陽光は、まっすぐに白鳥澪を見つめた。まるで弓の名手が静かに的を見据えるように。
「活動のことも役者のこともよくわからないが、なんというかあなたには特別なものを感じました。不思議と惹きつけられるなにかを」
静かだが力のある口調で告げたかと思うと、はっと我に返る。「お、俺はなにを気障な……すみません」と呟いて、クリィムソォダの残りを煽ってまたげほげほとむせた。
史緒はそれを笑うのも忘れて、ただテーブルクロスのレースの端の山だけをじっと数えた。顔を上げて陽光の顔を見るのは、どういうわけか躊躇われた。
なんだよ。今の顔。
なんだよ〈あなたは特別〉って。
……そんなこと、生まれて初めて言われた。
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