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8.初めてのお手紙
それから小一時間ほどかけて、陽光はやっと手紙を一通したためた。
ぜえはあと息切れする様子は、まるで剣道の切り返しと追い込みをみっちりやったあとのような瀕死状態だ。
史緒は「必ず渡す」と請け負って寮の部屋に帰り、質素な寝台に腰を下ろした。あんな死に体になるほど苦手なのに、それでも書き上げたんだなと思う。
――そんなに白鳥澪に入れあげてるのか。
『あなたは特別です』
あんな眼差しを、史緒はかつて受け取ったことがない。誰からも。
もちろん学校での成績は優秀で、教師にも級友にも褒められることは度々ある。けれどそれはあくまでうわべの問題だ。
あんなふうに手放しに、すべてを捧げるような称賛とは違う。
たとえば従子の、七生に対するそれ――『あなたはお母様のすべてなんですから』
あんなふうに魂のすべてを擲つような愛情を、過剰だと思う反面、羨ましいと思うことがある。
自分はお家存続の為に引き取られた駒にすぎない。七生のためにその役割を演じ切ろうと腹は決めているものの、ときどきは空しくもなる。
自分は誰からも本当に心の底から愛されることはないのだと。
そんな、得難い本物の思いの丈を盗み見ようとしていると考えると、いまさらながら良心が咎めた。
――いや?
そもそも白鳥澪は自分だ。つまりこれは、この俺あてだ。俺が開封していったいなんの悪いことがある。
そう己を納得させて、封を切る。出てきた便箋はたった一枚きり。それでもここにあんなに無骨な男の生の言葉がしたためられているかと思うと、きゅっと胸が引き絞られるような気がした。
――白鳥澪様
達者とは言い難いが、一角一角、息を詰めて書いたのだろうなと一目で伝わってくるような文字。
きっと力を入れすぎるか、考えすぎてしまうのだろう。ところどころインクのたまりが濃い。愚直に頭を抱えていたあの姿そのままが見えるような字だ。
どきり。心臓がひとつ、予想外に脈打つ。
こんなに実直さが伝わる文字の手紙を受け取ったら、受け取る側はきっと嬉しいだろう。もっとありていにいうのなら、好意を抱く。
いや、受け取る側って。だからそれは俺だろう。
もうこうなると、誰に対して、どんな感情を抱いているのか、自分でも判然としない。
史緒は奇妙な居心地の悪さを振り払うように折り畳まれた便箋をすっかり開いて、続きに目を通した。
白鳥澪様
ぶしつけなお便り失礼致します。
先日はお会いできて光栄でした。
陸奥陽光
「――ん?」
史緒は指先で便箋を執拗にめくってみた。
そうでなければ取り出すときに気づかず落としてしまっただろうかと、立ち上がって板張りの床をきょろきょろ確認してみたりもした。
だがそれらしきものはなにもない。
あんなに時間をかけて赤くなったり青くなったりしながら書き上げたのが、正真正銘この数行。
史緒は端正な顔に不似合いに叫んだ。
「阿呆かあいつは……!」
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