1.伯爵家の嫡男と成金の息子

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1.伯爵家の嫡男と成金の息子

 素足がふわっと畳を離れた。  油断したつもりはまったくなかったのに、策を打つ間もなく史緒(ふみお)は背負い投げされ、武道場の格天井を見上げていた。汗混じりの藺草のにおいを不快に感じる。 「一本! 陸奥」  教師の声が木造の武道場に響き渡る。級友たちが堰を切ったようにざわめき始めた。 「嘘だろう……高遠はあんななりだが今まで誰にも負けたことはなかったのに……」 「いいぞ、陽光(ようこう)! 痛快痛快!」 「静かに!」と教師の声が飛ぶと、生徒たちはぴたりと口をつぐんだ。が、むずがゆそうなその口元からは、不満がみえみえだ。  ふと気配を感じて目だけ動かすと、自分を投げ飛ばした張本人、陸奥陽光が無言で手を差し出していた。  自分の周りではまず見ない、節の浮いた無骨な指。肩の張った長身。一言で言うなら男臭い。そして頑固そうにきつく引き結んだ口元は、引き結んでいるのに如実に語っていた。  ――「手なんか貸したくないけど、教師の手前やむなく」ってとこか。  史緒は差し出された手に敢えて気づかないふりをして背を向けると、乱れた胴着の白い胸元を合わせた。そのままおざなりに礼をして離れる。 「貴様……!」  陸奥の取り巻きたちが気色ばみ、教師が「静かに!」と再び叫んだところで、授業は終わった。  ここ修礼院(しゅうれいいん)は、華族、皇族の子弟のために設立された学校だ。  しかし、そもそも華族の数は限られている。近年は経営上の理由から、一定の審査の上一般人の子弟も受け容れるようになっていた。  そこで、金が手に入ったら次は名誉だとばかりに増えたのが、自分の子供を送り込んでくる成金だ。  お目当ては、不肖の息子が誰それ伯爵様の御曹司と机を並べて、という箔。知己を結んで姻戚にでもなれば尚結構。中には開口一番「おまえに姉妹はいるか」と訊いてきた者もいたとかで、教室は自ずと華族と庶民とで対立傾向にあった。  陸奥陽光(むつようこう)も、最近編入してきたばかりの庶民のひとりだ。  父親は戦争特需にうまくのっかり、ボロ船を何十倍もの値で売り払ったことをきっかけに財をなした山師のような人物。  政財界のお歴々を招いては、新柳両橋の花形芸者を総揚げして接待するというやり方でさらに殖財し、今や帝都の一等地にぐるっと周囲を白い壁で囲まれた一万坪にも及ぶ大邸宅を持つ。壁の白さを保つため、壁磨き専用の使用人が二十人いるともっぱらの噂だった。  そうまでして磨き上げても、そのなりふり構わぬ金儲け主義から、世間では「真っ黒御殿」と呼ばれているらしい。  一方、史緒の家は維新後すぐからの伯爵家だ。  華族の子弟といえば乳母日傘で軟弱な者ばかりと侮っている庶民も多いが、そもそも華族は有事の際の従軍が義務付けられている。   軍人出身の学長の方針で、肉体の鍛錬にも重きを置き、水練、柔道、剣道、それに馬術と一通りの授業がある。  水練などは葉山の御用邸近くで合宿を張り、海の上に組んだ櫓から容赦なく突き落とされるスパルタぶりで、音を上げる庶民も少なくない。  史緒は屈強な体格にこそ恵まれなかったものの、持ち前の才でそれらの授業もよくこなした。家格も公候に次ぐ伯爵ということで、教室内での地位は上位だ。  そんな史緒を陽光があっさり投げ飛ばしたものだから――着替えて教室に戻っても、まだ陽光の周りには人だかりができていた。 「陸奥は俺たち庶民の星だ!」 「座学の成績だって今じゃ陸奥が一番だし」  そう、華族と同じ学校に通っているという箔をつけたいだけの連中の中で、陽光は珍しく勉学も秀でた男だった。  ――それがまた憎たらしい。  入寮したばかりの頃、先輩たちの襲撃をかわすのに一苦労した美貌の外面を貼り付けたまま、史緒は内心毒を吐いた。  陽光が仲間たちの言葉に応じる。 「俺は華族さまたちと違って、自力で商売をよくしなきゃならんからな。おやじ任せってわけにはいかない」  あれだけ巷の耳目を集めておきながら、まだこの上の成金を目指すつもりなのか。  思うところは同じだったらしく、取り巻きのひとりが気色ばんだ。 「あいつら、好き勝手言ってる。なにか言い返せよ、高遠! 乗馬や水練だったら絶対負けてないだろ」 「いいよ、放っておけ。――俺は庶民とは関わらない」  いなした言葉は、陽光にも聞こえていたようだ。 「〈庶民とは関わらない〉、か。だがここの連中は、今や下々の者どもの金でかろうじて勉強できてるんだろう」 「おい、それ以上は――」  頼んだわけでもないのに自分に代わって喚き散らす級友を置いて、史緒は教室を後にした。  無駄だ。憤るのも言い返すのも。  しょせん、生き様を自由に自分で選べる連中なんかにはわからない。なにも。
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