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彼の人生は金銭的には成功していた。大金持ちだった。物質的にはなに不自由のない暮らしがあったし、思いつく限り大概の贅沢が出来ていた。
幸せは金では買えないともいうが、彼はそういう考えについて、金のない人間の妬みに過ぎないと、ずっと思っていた。彼は、身の回りのすべてのことを金で解決できる自信があったからだ。人の心も、金で動かない相手を見たことが無かった。
金で満たされた人間の人生は、そういうものだった。金は心も豊かにしてくれると固く信じて、疑いはなかった。宗教が、金を持たず欲を捨てて、ほかに何の幸せを手に入れるのかと訝しく思った。今自分の目の前にある、大きく確実な幸せを捨てて代わりに得られるものが清廉な心であるとか事前に確認できない理想の世界というのは納得がいかなかった。自分は犯罪を犯しているわけでも無いのに、私の心は不浄だというのだろうかとしか感じなかった。
だが彼も、長い間そうして生きてくると、いつしか飽きが生じた。退屈なのである。すでに見たもの感じたものばかりの世の中になって行った。
彼は自信の商売同様に飽くなき探究心と退屈を打破すべく燃え上がる情熱とが入り交じり、いつの間にか、金を儲けるという確固たる現実を離れて不可思議な世界へと興味を向けるようになって行った。宗教や占いのような曖昧模糊とした、漠然とした針路のようなものを嫌っていたのにだ。してはいけないと思うとなぜかそちらへ近づいて行ってしまう作用のようなものだった。
だが彼がそのような超自然的なものへ心惹かれるようになったのは、相当に現実的な理由があった。
「年を取ること。人はいつか死ぬということ」
彼はこの問題に直面し、強く意識したとき、自分も年を取ったのだと考えた。そして今までそんなものに投資をしたことはなかったが、すぐさま、寿命の延長や死の回避(クローン技術や何らかの機械的な置き換え技術)の分野に期待を掛けてみた。しかし、それらの研究が成果を上げる前に自分の年齢が尽きてしまうことを悟った。
それ以来彼は、超自然の力(パワー)に傾倒するようになったのだ。
彼は始め、そういう超自然のパワーに精通する人物に会い、話を聞いたり、何らかのパワーを授かることを試した。それには大概、莫大な金が掛かった。効力が目に見えず、証明も示されないものに簡単に投資をすることは、彼の経営者、投資家といった顔が疑問を投げかけた。
彼は人を雇って信用のおける情報を集めようともした。経済的成功には確実な情報こそ最重要だったからだ。だが、不老不死に関する情報にそれは通用しなかった。もし本当に真実の不老不死の法を見つけ出したなら、まず、当のその人間が行うに決まっているし、彼より高い金でその情報を買う人間がいるだろうからだ。
「これは、自分で見つけ出さなければならない」
彼はそう心に決めた。
それから彼は不老不死の秘宝を探す旅に出た。文献を探し伝説を読み、人の噂に耳を傾けた。
彼の探索と冒険の旅は、もう幾年かが過ぎていた。
彼は、ある地方の奥地の切り立った山々と靄の絶えない場所に迷い込んでいた。この辺りは、地図にも詳細はまるで載っていない。ただ周辺の地形か大ざっぱに描かれているだけの場所だった。
彼は一人、細く険しい道を手探りで進み、やがて靄の薄い切れ間の先に小さな小屋を見つけた。
「やはり、こんな山奥にも人は住んでいるのだな」
それは珍しいことではなかった。彼は旅の途中に何度も実に険しい環境の中で生活をする人間を見ていた。これほどどんな場所でも生活している動物は人間しかいないのでは無いかと思っていた。
彼はぽつんと佇む小屋の前に立ち中の様子をうかがった。窓ガラスというものはない。木組みの戸の付いた小窓が細く開けてあったので中をのぞいてみた。中は明かりが灯りテーブルと椅子があった。
「これは思った以上に小綺麗な文化的な小屋だ」
そして、中にはカウンターがあり、店のように見えた。
「こんな場所で、客商売をしている店があるのか?」
彼は何か、得体の知れない寒気を憶えた。それでも、ここでこの店を避けて見過ごしにするわけには行かない。彼は懐に護身用のナイフを確認して、武者震いを押さえながら小屋の扉を開けた。
――ギギィ
扉が開くときのその音に「しないでくれればいいのに」と彼は思いながら、そっとそっと開けた。
「いらっしゃい」
彼は驚いた。こんな場所の店で自分を出迎えたことばが日本語だったからだ。
「あなたは日本人だね。見れば分かる。長年の経験と勘でね」
「そ、そうなんですか」
彼は呆気にとられながら感嘆した。
「こんな所にある店だから、人がめったに来ないと思うでしょう?ところが逆で、こんな所にあるから、いろんな地域や国から人が来るの。そういう人たちと話すために、わたしはいろんな言語をマスターしたよ。英語、フランス語、ドイツ語、まあ10カ国語くらいはイケるよ」
「そりゃすごい」
彼は小屋の入り口から恐る恐る店の中へ進みカウンター越しに店の主人と思われる男に近づいた。
店の男は中年の、少し肥えた体格で顔は浅黒く目鼻立ちはハッキリとした、厳つい、いかにも山の男という感じの顔立ちで、服は布と毛糸のようなモコモコとした毛皮を組み合わせた暖かそうなものを着ていた。
「何か飲むかね?」
「あ、あぁ、何があるんです?」
「まあ、こんな場所だからろくなものはない。水と酒。どっちか」
「それはまた大ざっぱだね……じゃあ、酒を水で三倍くらいに割ってくれるかい」
「ふぁ!水で割るか?!それは今まで頼まれたことがなかったし考えたこともなかった。さすが日本人、うちの店の三つ目のメニューが出来た」
そういうと店の男は木のジョッキに瓶からひしゃくで酒を入れ、そこに隣りの大きな瓶から大きなひしゃくで水を入れた。笑顔でカウンターに突き出されたそのジョッキを彼は見つめてから持ち上げた。
「大丈夫。飲んでも死にはしない。……大概の人は」
彼は主人のことばに眉をひそめて口元までジョッキを運び、もう一度ジョッキの中を見つめて口を付けた。
「うぅっ」
彼の口の中には苦みと酸味が混じった、かなり強いと思われるアルコールの刺激が広がった。これで三倍に薄めた味なのか?と彼は思った。
主人はファッファッファと笑っている。
客の彼は主人に単刀直入に聞いた。
「この辺りに、不老不死の薬を持つ仙人のような人がいると聞いてきたのだけど。知らないか?」
主人はカウンターの手前に目を落としたままニヤニヤと笑っていた。
「さっきも言ったけれど、この店にはいろんな所から客が来る。そしてみんな、わたしにあんたと同じことを聞く」
「そ、そういうことか……それで答えは?あんたの答えは?」
「お客さん。わたしを嘗めちゃダメ。そんなすごいことをもし知っていたとして、会ったばかりのあなたに教える義理はない!」
「それは……そうだな」
彼は不味いと思ったジョッキの酒を少し飲んだ。そして、カウンターにジョッキをバタンと置いて。
「お金は?お金で解決できることかい?」
「お金かい?もしわたしが、あなたの言う不老不死の薬を持つ仙人のようなものだったとして、お金がそんなに必要なものだと思うかい?」
不老不死の薬を求める彼はその日以来、近くでキャンプをしながら足繁くその店に通った。そのうちに店の主人と気心が知れて、薬の話はせず雑談をするようにもなった。店には月に数人、さまざまな国から人が訪ねて来て、彼同様に不老不死の薬の話を聞いていくのも知った。大概の訪問者は問題を金で解決しようとするか暴力に訴えた。彼も危うく巻き添えを食いそうになったこともあった。そして、暴力に傷ついたはずの店の主人がそのあとにケロッとしている姿も見た。だから彼は、心のどこかで店の主人が不老不死の薬について知っていると言うことに疑念を抱いていたのが払拭された。「やはり、あの主人は知っているんだ」と、そう確信した。
キャンプしながら粘っていた彼も食料も何もが尽きて一度、山を下りなければならなくなった。
「マスター、また来ますよ」
「待ってるよ。気をつけてね」
彼の心を分かっていても、店の主人は飄々と超然とした態度で彼を見送った。
それ依頼、何度も何年にも渡って不老不死の薬を求める男は、あの不思議な飲み屋までの道のりを一人で行き来した。
「マスター。お土産だ」
彼は酒の瓶を二本ばかり荷物から取り出して渡したこともあった。
「ホッホッホ。嬉しいね。きょうは、これで酒盛りしよう」
店の主人はそう言うと店の戸を閉めてしまい、二人きりで酒を飲んだ。
店の主人は、このような山の奥地に住んでいて店の中になんら文明的なものが無いにもかかわらず、世界中の話題に精通していた。そして、世界の話をおもしろおかしく話してくれた。話を聞いていた彼は、その主人の、もはや時の流れや死の束縛から解き放たれたたたずまいにうらやましさがこみ上げて来るのだった。
さらに月日が流れた。不老不死の薬を求めた彼も年老いた。
「これが最後の訪問だな」そう思った長い旅だった。
もはや見慣れたような懐かしいような小屋の扉を開けると、いつもの主人が昔と全く変わらない顔と姿でニコリと笑ってカウンターの奥に立っていた。
「いらっしゃい」
「マスター。ここまで来るのは険しい山を乗り越えて来なくてはならない。今回が最後です」
「そうか。それなら今日は私がごちそうするよ。大いに飲もう」
店の主人は、出会ったころは客の彼よりいくつか年上のようだったが、今では主人より彼の方がずっと年上になってしまった。
その晩、二人はまた旧交を温めながら飲んで歌い明かした。
次の日の朝、彼は店の主人にあいさつをした。
「年のせいで、もう長居は出来ません。これで帰ることとします。長い間のつき合いでした。ありがとう……あなたとの関係は、いい思い出になりました。残念な思いもあるけれどね」
「あんた、不老不死の夢が叶わなかったのに、ずいぶん待ち続けたね。これはわたしからの餞別だよ」
店の主人は小さな革の小袋を彼に差し出した。それを彼はジッと見つめて手のひらで受けた。店の主人も黙って、ただウンウンと頷いた。
店をあとにして彼は、なんだか涙をボロボロと流しながら険しい山道を飛ぶように越えて家に帰り着いた。
彼はもらった革の小袋の口紐を緩めて中を覗いた。中には黒茶の米粒ほどの丸薬のようなものが入っていた。
考えて見る必要などなかった。彼は震える人差し指と親指とで丸薬を摘み迷わず口に放り込み飲み込んだ。体中に何かが漲り、熱くなるのを感じた。
あの店の主人は思っていた。
「仙人というのがいるとしたら山奥にいると思うのだろう。あんたはいい人間だと分かっていた。あんたもここに住み着くのなら、すぐにも薬を上げてもよかったのだがな」そう言って苦笑いを浮かべた。
不老不死の薬を追い求めた男は思っていた。
「不老不死とは、若返るという意味ではないのだな。そんなことにいまさら気づいた。もう、体もろくに動かず、日の半分を寝て暮らすようなこの年で不老不死になったところで、なんの楽しみがあろうか?」
公園のベンチに年寄りが一人座っていた。
彼は毎日、近所の子どもに自分が若いころに世界中を冒険して歩いた話をたくさん話して聞かせていた。その話は大変おもしろかったので子どもたちにも人気があった。
子どもたちは、おじいさんから聞いた話を家に帰ってから、自分の体験のように楽しそうに家族に聞かせるのだった。
「あぁ、あのおじいさん、まだそういう話を子どもに聞かせてるんだな……パパも小さいころに聞いたよ……あのおじいさん、年はいくつなんだろうな?」
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