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「何やってんだよ……あの婆さん」
婆さんは電車に気づいていないようで、必死で線路を覗き込んでいる。婆さんのいる位置で電車が急ブレーキをかけたら、俺は死ねなくなってしまうかもしれない。
「また邪魔が入るのかよ……」
俺の人生は大事な場面でいつも他人に巻き込まれたせいで失敗してきた。
十年前。第一志望の会社の面接の日、急病で倒れた通行人の介抱をしていたら面接に遅刻した。その会社は事情をちゃんと聞いてくれず、遅刻した焦りもあって面接は散々な結果に終わった。第二希望、第三希望と志望順位の高い会社もなぜか他人の事故や病気に巻き込まれて遅刻のうえ落第し、今のクソみたいな会社に入るしかなくなったんだ。
だが、なおも線路を覗き込んでいる婆さんの姿に、身体が咄嗟に動いた。
「電車が来てるよ、婆さん。何してんの」
「スマートフォンを落としたみたいなの。あなたも一緒に探してくれる?」
「そんなのいいからっ」
ぷぁーっ。電車の警笛が鳴り響いた。俺は婆さんの身体をプラットホームから引きはがし、一緒に後ろに倒れ込んだ。その瞬間、電車が轟音を立てて走り過ぎていった。
仰向けのまま隣を見ると、婆さんが口をパクパクさせていた。やれやれと首を振りながら起き上がったところで、駅員が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですかっ!?」
駅員が婆さんを立たせようと手伝う姿を横目に立ち上がると、ポケットに入れていたはずの定期券が無いのに気が付いた。しまった。死に損なったから、まだ必要なのに。この駅で飛び降りるのは少なくとも今日は無理だろう。他の場所を探さないといけないのだ。できれば、ホーム柵のない駅。
辺りを見回していると、「あの、あなた」と婆さんに呼び止められた。
「……何ですか?」
大事なところで邪魔をした張本人に対し不快感を一切隠さない顔のまま振り向くと、婆さんが真剣な眼差しを俺に向け、何かを差し出してきた。
「これ、あなたのでしょう?」
婆さんが差し出したのはまさしく俺の定期券だった。
「……そうです、俺のです」
さっさと定期券を引ったくろうとすると、婆さんは俺の手を握りしめてきた。しわくちゃだったけど、血の通った温かみを感じた。
「本当にありがとう。スマホはダメになっちゃったけど、命は拾えた。あなたのおかげです。本当に、何と言ったらよいか」
「大袈裟ですよ」
「何かお礼をさせてくれないかしら」
「遠慮しときます。俺、急いでるんで」
「そう仰らず……。大したお礼はできないかもだけど」
「じゃあ、いい場所を教えてくださいよ。ここ以外で」
「……?どこか、探している場所があるの?」
「……いえ、別に。何でもないです」
定期券を受け取り、俺を表彰したいという駅員の呼び止めも振り切って、俺は電車に乗った。
次なる死に場所を求めて。
でも、車窓から見えた婆さんの優しい目が頭にこびりついて離れないのは、どうしてだろう。
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