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さっきの救出劇を思い返していたら、いつの間にか終点に着いてしまっていた。あのときあの場所に婆さんがいなかったら、今頃俺は……。
ぼんやりとした足取りで駅を出た。分厚い雲が空を覆って、道行く人々の顔が薄暗く見えた。
何で人なんか助けたんだろう。どうせ死ぬなら無視すればよかったじゃないか。昔から、大事な場面でいつも他人のことに巻き込まれる。
あのときもそうだ――大学生のころ、居酒屋でバイトしていたときのことだ。俺の家は母子家庭で、母親に学費や生活費を出してもらう余裕はなかった。俺は奨学金を借りつつ、1年生のときからバイトに精を出した。多いときで週に6日はシフトに入り、せっせと金を稼いでいた。ガキのころから炊事洗濯やら掃除やら家事を手伝ってたから、料理の仕込みの手伝いや店の清掃も割と要領よくこなせていた。そのかいあって、同じ大学の先輩から、卒論に専念するためにバイトを辞めるから、自分が今受け持っているチーフをお前に引き継ぐよう店長に推薦しておく、と言ってもらえた。
俺は感激した。チーフになれば給料が上がる。それだけじゃない。バイトのシフト作成業務にも関われるから、スケジュールの調整もしやすくなる。でも何より、俺より勤続年数が長い人間が大勢いる中で、俺の頑張りが認められたことが一番うれしかった。
が、一晩ですべてがパーになった。
ある晩のこと、客が退店した席を片付けていたときのことだ。店のテレビで野球中継を映していたのだが、昔から永遠のライバルと称されるチーム同士の対戦で、しかもそのとき両者は熾烈な一位争いの真っ只中だったらしい。そして試合は2対2の同点で九回裏、ツーアウトランナー三塁。ここで一打が出れば勝負が決するという状況で、バッターは四番、そのシーズン首位打者も狙いうる調子の良い選手だった。この状況で守備側は、彼を一塁まで歩かせた。意図的にフォアボールとすることで出塁させ、打ちそうな選手との真っ向勝負を避けたのだ。
敬遠という立派な作戦なのだが、これが攻撃側のチームを応援していた客たちの癪にさわったらしく、彼らは「腰抜け」「卑怯者」などと野次を飛ばし始めた。彼らは俺が片付けていた席の右側に座っていた。それだけなら野球好きが酔っぱらてるなー、で済んだのだが、間の悪いことに、たまたま俺の左側に守備側のチームを応援している一団がいた。
彼らもすっかり出来上がっていたため、野次を聞いて激昂。俺を挟んで言い争いを始めた。突然の両岸の火事に困惑する俺をよそに、両者は試合そっちのけでヒートアップ。「バカ」「ごみくず」「糞ったれ」と罵声合戦が繰り広げられると、もともと騒がしい店でもさすがに周囲の客が眉をひそめ始めた。このままではまずい。「他のお客様のご迷惑になりますから……」とやむなく仲裁に入ったが火に油で、両者は取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。店は阿鼻叫喚の騒ぎとなり、俺はテーブルの上の皿やグラスと一緒にもみくちゃにされ……後に待っていたのは店長からの無慈悲な戦力外通告だった。
気がつくといつの間にか駅前ロータリーを通り過ぎ、そこから続く四車線の車道の、左側の歩道を歩いていた。車道から枝のように生えた道路が歩道を横切っていて、その先を見ると、ロータリー前の道路より細い車道を挟んで公園があった。子どもたちがはしゃぐ声が聞こえた。
何となく道を左に曲がり公園に向かって歩いていくと、赤い太字で「飛び出し注意」と書かれた看板が針金で電柱にくくり付けられていた。
飛び出し。
電車は無理だったが、車ならあるいは。
そう思ったときちょうどエンジン音が聞こえてきたので右を向くと、一台の軽トラックがやって来るのが見えた。
俺は道路脇に突っ立って、徐々に大きくなる軽トラの姿を見つめていた。そうだ、このままあの軽トラに突っ込もう。俺はタイミングを図って道路に飛び出した。
そのときだった。
公園からサッカーボールがぽーんと飛び出て、俺の足元まで転がってきた。それを追って、公園から小さな男の子が駆け出してきた。
男の子はボールを追うのに夢中で、軽トラに気が付いていない様子だ。軽トラがクラクションを鳴らすと男の子はようやく自分に迫った危機に気が付いたが、車にはねられそうになった子猫のように、ぴたっと立ち止まってしまった。急ブレーキをかけたのか、耳を切り裂くような甲高い摩擦音がした。だが軽トラは減速しきれない。運転席の窓ガラス越しに、軽トラの運転手が目を見開いているのが見えた。ハンドルを切ろうにも、この道幅では俺たちを躱すことはできない。このまま突っ立っていれば、今度こそ俺は死ねるだろう。だが俺と一緒に、この男の子も撥ねられる。
男の子が俺の顔を見上げた。自分に何が起こっているのかよく分かっていない、怯えと不安の混じった真っ黒な瞳。
俺の身体が、宙を舞った。
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