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影の方を向くと、その主は一人の女性だった。長い髪がそよ風にたなびいている。歳は俺と同じくらいだろうか。年齢だけではない。俺と彼女は奇しくも同じ格好をしていた。彼女もまた両手と片足を橋の欄干にかけていたのだ。彼女は一心に川面を見つめていて、俺には気づいていない様子だ。
さて、どうするか。ようやく見つけた死に場所にまさか先客がいるとは思わなかった。あの様子からして彼女も川へ飛び込もうとしているのだろう。別に彼女のことなど無視して先に飛び込んでもいいのだが、俺が飛び込んだ後に彼女が翻意しては困る。俺が危惧しているのはまさにそこだった。つまり、救急車でも呼ばれて俺が救助される、なんて落ちは避けたいのだ。
では、彼女が飛び込むのを待つか。だが躊躇いがあるのかさっきから動きが遅い。どうした。あんたもこの世に絶望して命を絶とうとしてるんだろ。だったらさっさと行けよ。俺は片足を欄干にかけたまま彼女をじっと見つめた。彼女はもう片方の足も欄干にかけた。そうだ、行け。
だが、視線で後押ししようとしたのがよくなかったらしい。彼女ははっとして俺の方を向いた。死にゆこうとする男女の目が合ってしまった。それなりに整った顔立ちだが、憂いを帯びているどころではない、憂いに覆われた、思いつめた顔だった。俺たちはしばらく珍妙な格好で固まったまま見つめ合った。聞こえるのはときどき橋を通過する車の音だけだ。
二人の間に横たわる沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「……止めないで」
「……は?」
予想外の彼女の言葉に、これから死のうとする男にしては随分と素っ頓狂な声を上げてしまった。別に引き止めてなどいない。むしろ自分が引き止められないよう注意を払っていただけだ。
「私、本当に飛び降りるから」
本気ならそんなことは言わない。黙って欄干に立ち、飛べないのに鳥のように手足を広げてダイブするはずだ。さあ、飛べ。
「何してるの?」
自殺を止めるわけでもなく近くで見つめる俺を怪訝に思ったのだろう。街灯の薄ぼんやりとした明かりのもとでもはっきりとわかるくらい、彼女の顔に困惑の色が浮かんでいた。
「あんたと同じつもりだったけど……」
「正気?」
いや、あんたにだけは言われたくない。もう面倒だ。最期になって他人を気にするのもおかしな話だ。俺は彼女が行くのを待たず欄干にもう片方の足もかけようとしたが、彼女は「ちょっと、やめてよ」と制止してきた。
「は?」
「あなたと心中したと思われたくない」
「俺はどうでもいい、死んだ後の世間の評判なんか。気になるならあんたが他の場所に行け」
「ここじゃないとダメなの」
「知らん」
「ここで、一人で死なないとダメなの」
腹の中の想いを吐き出すように、じっくりと彼女は言った。くそ、なんて表情しやがる。俺も俺だ。ここに来て他人のことを気にする必要なんかないのに、何で動きが止まるんだ。
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