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相談する余地もない
「転職エージェント?」
圭一は、僕を無理矢理ソファーに座らせると、自分のスマホを押しつけた。画面には、転職サイトのマイページが表示されていて、担当者とのやり取りの履歴が残っている。最新の連絡は、昨夜の日付だ。
「そ。本当は、温泉宿で落ち着いてから、ゆっくり話そうと思っていたんだ」
彼は隣に腰を下ろして、いつものグァテマラブレンドを一口含む。昨夜の赤コートは、企業と転職希望者との橋渡しをする担当者だという。Dホテルのティーラウンジで、彼が転職する予定の企業と条件面での折り合いが付いた、という報告を受けていただけだと力説された。
「だけど、なんで転職するんだよ? 就活の時、苦労して入った会社じゃないか。それに仕事だって、やり甲斐があるって」
「そりゃあ……」
マグカップを置くと、苦笑いを浮かべながら、僕の髪をクシャリと撫でる。
「ずっとお前と暮らしたいからに決まってんだろ」
「――ぇ」
「実は、関西支社に転勤の内々示があったんだ。正式な辞令が出る前に、転勤の無い会社に移ろうって決めた」
「だ、だけど」
髪に触れたまま、覆い被さるように身を乗り出してきた。真剣な鳶色の瞳に正面から捕らえられて、逸らせなくなる。
「お前、遠距離出来んの? 手の届く範囲に居なくても平気な訳?」
「あっ……いや、そんな訳な――んっ」
しどろもどろの言葉は、彼の舌に絡め取られた。彼の好きなグァテマラブレンド。香りと味が――大好きな感触が、口一杯に広がって。
「幸哉。転職のタイミングで引っ越すから、コイツ、お揃いの1本だけにしないか」
スウェットを掴んだ僕の手を取ると、彼はさっき僕が外した合鍵を乗せた。僕には彼の、彼には僕の、互いの合鍵が付くキーケース。そこに同じ形の1本だけが付く、ということは。
「そ、それって同せ……」
「嫌なんだよ。お前の寝顔に『おやすみ』も『おはよう』も言えねぇのは」
関西でも海外でも、相談されれば、僕は付いていった。だけど、彼が迷いなく選んだ2人のこれからが嬉しくて――不細工に腫れた瞼が元に戻るには、もう少し時間がかかりそうだった。
【了】
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