押しかけでも追いかけでも

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押しかけでも追いかけでも

「とりあえず……なんか飲むか」 「いらない」  何ヶ月、いや、多分1年近く踏み入れていなかった圭一の部屋に通された。リビングは、彼が言い訳にするほど散らかっていない。けれど、ローテーブルの上に開いたままのノートPCがあり、それを囲むように書類の山が積まれている。今しがたまで作業していたと覚しき様子に、彼の多忙な生活を見せつけられた気がする。 「座れよ。突っ立ってないで」  ゴルフクラブをクローゼットに放り込むと、彼はソファーを示した。寛ぐつもりなんかない。用件だけ告げたら、サッサと帰るつもりなので、リビングの入口から動かなかった。 「昨夜の女性(ひと)は、誰?」  冷蔵庫から取り出した炭酸水をあおっていた圭一が、ダン、とシンクに瓶を置いた。 「――は?」 「赤いコートのロングヘア。Dホテルに入ったよね、2人で」 「なんで……知ってんだよ」  振り向かない背中。ダメだ。胸が苦しくて、息が詰まる。 「付き合ってるの? 僕と会わない週末は、あの女性と会ってたの?」  声が震えそうになったから、両手をギュッと握り締める。痛い。きっと爪痕が残る。掌にも、心にも。 「お前、さぁ……」  彼が振り返る素振りを見せたから、咄嗟に背を向けた。ポケットからキーケースを出して、この部屋の合鍵を外しにかかる。指先が震えて、上手く出来ない。 「合鍵、返しに来たんだ。もう、付き合えない」 「あのな、幸哉」  近付いてくる気配に焦る。 「うちの合鍵は送って。圭一の私物も送るから」 「おまっ、話聞けって!」  やっと鍵が外れたと思ったら、乱暴にグイッと腕を掴まれた。 「嫌だ! ホントは顔も見たくなかったんだ! まだホテルに居ると思ったから、来たのに!」  勢いのまま、彼の胸に鍵を押しつける。カシャーンと床に落ちた音がした。 「勝手に決めつけんな、馬鹿!」 「離せよっ! やだ、止めろっ」  なおも振りほどこうと身を捻るけど、逆に壁に背中を押しつけられ、身動きが取れなくなった。強く握られた上腕が痛くて、顔を逸らした。その顎をギリッと掌で捕らえると、彼は身を屈めて下から掬うように僕の口を塞いだ。押さえ込まれる痛みよりも、心臓が潰されたみたいに苦しくて、涙が溢れた。 「……酒臭ぇ。それに、ひでぇ顔」  互いの呼気がかかる至近距離。噛みつかれたような感触の強引なキスなのに、頭の芯が痺れて、膝から力が抜ける。彼の腕が腰に回り、ズルリと身体が沈み込むのを抱き止められた。 「だっ……誰のせいで……」  裏切られて、惨めで情けなくて悔しくて。見限る決意で乗り込んだのに、引き結んだ唇に、もう一度優しく柔らかな熱が与えられると、身体は素直に甘く蕩け、気持ちは簡単に揺れてしまう。 「別れるなんて言わないでくれ。この唇以外、重ねたくなんかねぇよ」  顎を捕らえていた掌が、ヒタリと頰に添えられる。眥に溜まった悲しみが、近づいた唇に吸い取られた。 「ちゃんと話さなくて、悪かった。心配かけたくなかったんだ。ごめん」  耳の底を擽る低い声。丁寧に抱き締められて、心臓がトクトクと走り出す。あまりにも単純だけど、やっぱり信じたかった自分に気付いた。
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